この聖書の御言葉は、新約聖書の富士山ともいわれるほどに一段と際立っている聖書の御言葉です。宗教改革者マルチン・ルターもこの言葉があれば聖書は再生できると言ったように、聖書全体を要約するような重要な言葉です。
1,世を愛される。
ここに世を愛される、とあります。それは私たち人間を十把一絡げにして愛されるという意味ではありません。それよりもむしろ、一人ひとりを格別に愛されるという意味があるのです。この世とは世俗のことです。およそ神から離れた存在です。しかし、そのような離れた者をも神様は愛されるのです。
ルカの福音書15章には、父から財産をもらい湯水のごとくに使い果たし、文無しに帰って来た息子を愛する父親の話がでています。そんなていたらくした、何の役にも立たない者を神様は愛されるのです。それどころか、この御言葉を見るなら、「そのひとり子をお与えになったほどに」とあります。それはひとり子イエス・キリストを十字架にかけてもという意味です。堕落して箸にも棒にもかからない、そんな人間を真の神様は愛され、たとえ罪を犯しても、自分の息子を代わりに差し出し、身代わりとして罪人を助ける。それが真の神様の愛なのです。
ですから、本当の愛は犠牲を惜しみません。どんなに犠牲を払ってでも赦すのが神の愛なのです。
2,御子を信じる者は滅びない。
次に、救われる条件がここにあります。それは御子を信じると言うことです。御子とはすなわち、イエス・キリストです。イエス・キリストがこの世に来られた目的は私たちを滅びから救うことにありました。そのために来られたのです。
私たちの性格は、自分のことを第一に考えてしまうところにあります。自己中心的なものです。なかなか人の言うことは聞けませんし、まして従うことは難しいことです。しかし、イエス・キリストは従順に父なる神様に従い通されました。十字架の死に至るまで従われたのです。そのキリストの十字架を信じるとき、私たちのすべての罪や今までの過ちは一切が十字架によって赦されるのです。これほど虫のよすぎる話はありません。しかし、これ以外に私たちが赦される、そして新しく生きる方法は他にないのです。
十字架には人を生まれ変わらせる力があります。人生を新たにさせる力があるのです。元やくざでクリスチャンになり、牧師になった方もおられます。人生は変わります。新しくやり直すことができるのです。滅びから救われるのです。
3,永遠の命が与えられる
それは単に滅びから免れるだけのことではありません。むしろ豊かな生き方ができるのです。
先日、家庭集会では「本当の豊かさ」を学びました。それは、自分が得よう得ようとして、持ち物が一杯になるこの世的な豊かさではありません。むしろ分かち与えて人に施し、豊かになる豊かさです。自分も満ちあふれ、喜びに輝いて生きる生き方です。
インドのコルカタで行き倒れの人を介抱し世話をした、マザーテレサがいました。彼女の原点は、自分が受けたものを他の人にも分かち合うことにあったと言われています。彼女は町を歩いていたとき貧しい家族を見ました。彼女が彼らに食べ物を分かち与えたとき、その家族は更に貧しい家族に分け与えたのです。それを見て彼女は人間としての愛に感動したのです。そして、すべてを与え愛して下さる神様に献身したのです。今でもその働きは終わりません。
神様は私たちを愛し、永遠の命を与えて下さっておられるのです。私たちは神様にますます愛されて豊になり互いに分かち合って生きるものでありたいと思います。
この聖書の御言葉は、新約聖書の富士山ともいわれるほどに一段と際立っている聖書の御言葉です。宗教改革者マルチン・ルターもこの言葉があれば聖書は再生できると言ったように、聖書全体を要約するような重要な言葉です。
1,世を愛される。
ここに世を愛される、とあります。それは私たち人間を十把一絡げにして愛されるという意味ではありません。それよりもむしろ、一人ひとりを格別に愛されるという意味があるのです。この世とは世俗のことです。およそ神から離れた存在です。しかし、そのような離れた者をも神様は愛されるのです。
ルカの福音書15章には、父から財産をもらい湯水のごとくに使い果たし、文無しに帰って来た息子を愛する父親の話がでています。そんなていたらくした、何の役にも立たない者を神様は愛されるのです。それどころか、この御言葉を見るなら、「そのひとり子をお与えになったほどに」とあります。それはひとり子イエス・キリストを十字架にかけてもという意味です。堕落して箸にも棒にもかからない、そんな人間を真の神様は愛され、たとえ罪を犯しても、自分の息子を代わりに差し出し、身代わりとして罪人を助ける。それが真の神様の愛なのです。
ですから、本当の愛は犠牲を惜しみません。どんなに犠牲を払ってでも赦すのが神の愛なのです。
2,御子を信じる者は滅びない。
次に、救われる条件がここにあります。それは御子を信じると言うことです。御子とはすなわち、イエス・キリストです。イエス・キリストがこの世に来られた目的は私たちを滅びから救うことにありました。そのために来られたのです。
私たちの性格は、自分のことを第一に考えてしまうところにあります。自己中心的なものです。なかなか人の言うことは聞けませんし、まして従うことは難しいことです。しかし、イエス・キリストは従順に父なる神様に従い通されました。十字架の死に至るまで従われたのです。そのキリストの十字架を信じるとき、私たちのすべての罪や今までの過ちは一切が十字架によって赦されるのです。これほど虫のよすぎる話はありません。しかし、これ以外に私たちが赦される、そして新しく生きる方法は他にないのです。
十字架には人を生まれ変わらせる力があります。人生を新たにさせる力があるのです。元やくざでクリスチャンになり、牧師になった方もおられます。人生は変わります。新しくやり直すことができるのです。滅びから救われるのです。
3,永遠の命が与えられる
それは単に滅びから免れるだけのことではありません。むしろ豊かな生き方ができるのです。
先日、家庭集会では「本当の豊かさ」を学びました。それは、自分が得よう得ようとして、持ち物が一杯になるこの世的な豊かさではありません。むしろ分かち与えて人に施し、豊かになる豊かさです。自分も満ちあふれ、喜びに輝いて生きる生き方です。
インドのコルカタで行き倒れの人を介抱し世話をした、マザーテレサがいました。彼女の原点は、自分が受けたものを他の人にも分かち合うことにあったと言われています。彼女は町を歩いていたとき貧しい家族を見ました。彼女が彼らに食べ物を分かち与えたとき、その家族は更に貧しい家族に分け与えたのです。それを見て彼女は人間としての愛に感動したのです。そして、すべてを与え愛して下さる神様に献身したのです。今でもその働きは終わりません。
神様は私たちを愛し、永遠の命を与えて下さっておられるのです。私たちは神様にますます愛されて豊になり互いに分かち合って生きるものでありたいと思います。
(宣教者 柏原教会牧師 西本耕一)