柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「きよい交わりを求めて」 第1コリント5章9-13節

キリスト信仰は、教会の生活と言うものを大切にします。聖書は教会のない信仰生活は教えていません。
ですから、教会の中で、どのような生活をするかと言うことは、信仰生活にとってきわめて大切なことです。そして教会生活とはどのようなものかと言えば、皆が親しくするところ、きよい生活をするところと言う印象があるでしょう。しかし、実際の教会生活は、それほど美しいものではないかも知れません。教会の中にも争いがあり、困ったことをする人もあることでしょう。


1.教会の現実          
ここに記されたコリント教会は実に問題の多い教会でした。それは、「不品行な者と交際しないように 9」注意していることでも分かります。
これは教会の中の話です。「酒に酔う者 11」と言われてドキッとする人が、この群れに居られるかどうかは分かりませんが、「人をそしる者 11」と言うことを厳密に言うなら、大なり小なり誰もが当てはまることになるのではないでしょうか。
ここで語っていることは、教会の交わりはただ親しければよい、と言うことではなく、はっきりとしたけじめを付けなければいけない、と言うことではないでしょうか。自分だけは立派だと言える人は誰も居ないから目をつぶって親しくして居れば良いと言うことではないでしょう。
教会は、ただ互いに優しい生活をするところではなく、厳しく、神の喜ばれるような生活を励まなければならないのです。少なくとも、教会の交わりと言うものが、いかに厳しいものでなければならないか、と言うことを忘れてはならないのです。


2.教会生活の実際

では、どのような生活をすればいいのでしょうか。ここには「そのような者とは付き合ってはいけない。いっしょに食事をしてもいけない 11」と記されています。最後には「その悪い人をあなたがたの中から除きなさい 13」とさえ記されています。
ところで、わたしたちは自分がきよいから教会の交わりに入れられたのでしょうか。そうではなく、信仰の交わりである教会に入れられたのは、自分が罪人であると言うことを知ったからではないでしょうか。その罪を告白し、救いを信じるようになったから教会の交わりに入れられたはずです。もしそうであるなら、どうして人を咎めることが出来るでしょうか。人を責めるどころか、自分の問題だということになります。
ただ、そのような罪人であるにもかかわらず、キリストの赦しを信じ受け入れたからこそ、こうして教会生活を送れるようになったのです。ですから、教会生活とは、罪を赦された者が、神の期待に答え、神の望まれるようにきよい生活することなのです。
しかし、ここに記されていることは、教会の交わりにありながら、キリストによって罪赦されたことを忘れてしまうか、罪の赦しのめぐみを全く知らないままに教会の交わりに入っているために、罪の生活から離れられない者たちのことです。
教会は、道徳的に立派な生活をすることを第1の目的とはしていません。教会は、自分たちの罪を知っている者が、ただキリストの贖いによって罪赦されたことを感謝し、神のために生きようとするところです。
ですからそこには、お互いに対する赦しもあるはずです。他人のことだけを責めることなどできないはずです。
同時に、キリストの赦しの恵みに与った者の集まりだからこそ、きよさを求め、厳しさを望むはずです。ですから、救いを忘れたかのような行為は許されないのです。人間だから少し位のことは良いのではないかと言ってはならないのです。救いを受けた者に対しては、まことに厳しく対処しなければならないのです。


3.教会の内と外

「あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。12」と、ここにはっきりと教会の立場が記されています。
パウロ、教会がまず取り組むべきことは、教会の中をきよくすることだと言っているのです。そして教会外のことは神に任せるべきだと言っています。
キリストによる救いは、すべての人を救うことです。ですからそのために努力することは、信仰者が無関心でいてはならないでしょう。
ところが、自らのきよさのゆえに、この世の不品行な者とは交わらないと言っていれば、パウロが言うように、わたしたちはこの世から出て行かなければならないでしょう。
そこで教会の使命を明確にしなければなりません。教会の使命は、神がイスラエルを選ばれたのと同じで、この罪に満ちた世にあって、教会がきよい交わりを通して、この世に神が求められるきよさを見せて行くことです。
ここに教会の内と外との区別があります。教会の外のことは神に任せるべきで、それを裁くことが出来るのは、ただ神だけです。
それは、教会の外のことは考えなくても良いと言うことではなく、教会は、常に教会の外のことを考えながら、その存在を通し、きよい交わりを保つことによって、神が教会を建てられた意味を、世に明らかにして行くのです。


4.教会の任務

こうして教会は、与えられた任務を尽くすことに集中しなければなりません。問題は、教会をいかに建て上げていくかと言うことです。建物のことではなく、神に選ばれ、救われた者の集団としての教会をしっかりと建て上げるのです。集団と言いましたが、それは単なる人間の集まりではなく、キリストの体です。キリストの体である教会を建て上げることこそが教会生活であり、信仰生活なのです。
キリストの肢体と言われているわたしたちは、その体である教会を建てることと切り離して、自分の信仰生活を考えることは出来ません。もはや信仰は、個人の問題ではないのです。
教会は常にきよさを保たなければなりません。しかし、そのために成長の苦しみも味わうことになります。教会を、何事も無い平和な世界と考えることは安易過ぎます。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ12:26」と記されている通りです。
わたしたちは、教会と言えば、人が集まり、献金をし、人数が増えて大きな群れとしての一つの組織を作ればそれでいいと考えてはいないでしょうか。教会がキリストの体だと言いつつ、世間の団体とどれほど違っているでしょうか。聖書に記されたイスラエルが使命を失って、他の民と何ら変わらない者となってしまったように、教会も同じ道を歩んではならないのです。愛ときよさに満ちた交わりを築くことによって、神に喜ばれる生活を世にあかしするのです。


                      (説教者:柏原教会 協力牧師  岸本 望)