柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「信仰の喜び」  ルカ24章23-34節

イエス・キリストが死の中からよみがえられた、復活の事実は世界を変えます。あの巨大なローマ帝国は滅びましたが、キリスト教はなくなりませんでした。復活の命があるからです。今も国を超え、人種を越えて全世界に信仰は広がっています。

 なぜならこの信仰に喜びがあるからです。

1.キリストが共におられる喜び

キリストの二人の弟子がエマオという村に行く話がでています。彼らがイエス様が復活された話をしているときに、なんとイエス様自身が彼らに近づかれたのです。でもなぜか二人は気がつきませんでした。
エス様が「何のはなしですか」と尋ねられたとき、暗い顔つきになったとあります(17)。そして女の人たちが墓に行ったとき御使いの幻を見たのだ(23)という信仰の有様でした。イエス様は彼らの不信仰を嘆かれました。(25)
でもそれで良いのです。何もがんばらなくて、無理に信じようとしなくても良いのです。なぜなら、キリストが共におられる。これだけで十分なのです。それはマタイ28:20で約束されています。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とキリストはいわれました。たとえ私たちの目には見えなくても、心に感じなくても、主は私たちと共におられるのです。
悲しむもの、苦しむもの、失望したものにも、また不信仰のために主の臨在を見失ったものにさえも主は近づかれ、共にいて下さいます。その共にいて下さる主を信じるとき、心に十字架を仰ぐとき、喜びが生じ、希望がわき、力が与えられるのです。
なぜ主は彼らに近づかれたのでしょうか。そこには理由があるのです。それは彼らが、イエス様のことを話していたということです。道を行く途中で、イエス様のことを話している、そこに人知れずイエス様は近づかれる、それとは知らないでイエス様は共におられるのです。それはすばらしいことだと思います。
道行くときにも、家庭でも、人と話すときはイエス様のことを、たましいの益になることを話し合いたいと思います。イエス様のことを話すなら私たちのたましいは大いにめぐまれ、祝福が与えられます。あるクリスチャンの人たちはいつも、分かれるときには「すこしイエス様のことを話そうではないか」といって話し終えたそうです。聖徒の交わりとはそうありたいものです。


2.心燃やされる喜び

心の鈍い弟子たちに、イエス様は聖書全体から説き明かされました。聖書は何について書いてあるかというと、イエス・キリストについて書かれている本です。この時代にはまだ新約聖書は完成されていませんでした。
しかし、旧約聖書を見るとキリストの救いが表されています。救い主には二つの面があります。それは栄光の王としての救い主の面と、もう一つは苦難の僕としての救い主の面です。ユダヤ人は栄光の王としか期待していませんでした。けれども、真の救い主は、私たちの苦しみをも理解し、私たちの負い目、罪や咎までも背負って下さる方です。それをユダヤ人たちは理解することができませんでした。ですから26節のような言葉を語られた訳です。そしてイエス様は、聖書全体にわたって、ご自分のことを説き明かされたのです。
そして彼らは知らない間に、エマオの村に着きました。それでも彼らは嬉しくて、イエス様に一緒に泊まって欲しいと願ったのです。それほど彼らはイエス様と一緒にいるのが楽しくてたまらないと言うほどでした。
そして、パンを割き、彼らに手渡されたとき彼らの目が開かれ、それがイエス様だとわかったのです。
そのとき彼らはどうしたかというと、何と来たばかりのエルサレムに戻って、弟子たちに報告したのです。何のために、エルサレムからエマオに行ったのかわかりません。でもそれで良いのです。主がよみがえられた、それが彼らの喜びですから。本当に嬉しかったら、エマオに行こうが、エルサレムに帰ろうがそんなことどうでも良いのです。
心燃やされる喜びこれが大切です。主の弟子たちも「主はよみがえられ、ペテロに会われた」とその話で持ちきりでした。
エマオの二人も「心は内に燃えた」と証しし大喜びでした。
心が燃やされる、これほど嬉しいものはありません。でもこの喜びは、導火線の火のようなものです。
じつはここから、彼らはさらに燃やされるのです。「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え」とロマ12:11にあります。この導火線から、やがて霊の沸騰へと導かれるのです。

願わくは私たちも、主が共におられる、そして心が内に燃やされる、やがて、霊に燃え主に仕えるものと成らせていただきたいと思います。


                         (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)