柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛がなければ」 第一コリント13章1-13節

この13章は、多くのキリスト者に愛された聖書の箇所の一つです。

それは、信仰告白、愛の告白とも言うべきもので、“私が”と一人称で語り始め、最後も“私が”で終わっています。これは聖霊によって与えられた愛について、神を讃美している言葉です。

 
1.人々の異言や御使いの異言  
12章の終わりで、聖霊が教会に与えて下さった賜物として、異言のことを記しました。それは当時の教会で尊ばれた賜物、だれもが与えられたいと願った賜物だったのではないでしょうか。ところが、そのように人々の抱いている関心に対して、12章の結語として、「さらにまさる道を示してあげましょう。12:31」と言いました。
ここをもう少し分かりやすく言い換えれば、<あなた方は言葉の賜物を求めますが、人々の異言や御使いの異言、すなわち美しい言葉を語っても、愛がなければ何の意味もありません>と言っているのです。 
「人々の異言」と言いますが、口語訳では<人々の言葉>となっています。人間同士が語り合う言葉とでも言えばいいでしょうか。
人間は、言葉をもって互いに交わりをはかります。言葉がなければ交わりは困難です。しかし、言葉さえ出来れば交わりが成立すると言うものでもありません。交わりの本当の意味は、愛ではないでしょうか。
ある人は<人間は愛を食べて生きている>と言います。夫婦の愛・親子の愛・兄弟の愛です。
巧みに言葉を操って人の歓心を引いても、愛がなければ空しいものです。人との交わりのすべてが愛だとは言いません。単なるお付き合いもあるでしょう。しかし、これぞという交わりには必ず愛が伴います。
確かに、仕方なしに交わると言うものもあるでしょう。そのような味気のない人間関係の中で、夫婦・親子・兄弟と言った愛の交わりがあるからこそ、人生に慰めを経験し、潤いを感じるのです。ですから人は愛に裏打ちされた言葉が必要であり、優しい言葉が欲しいのです。
しかし、そこにも、いつも愛があるとは限らないのです。愛に基づく人間関係で、最初に夫婦を挙げましたが、経験から言えば、親子・兄弟・夫婦という順序になるはずです。しかし、夫婦こそ愛の交わりの模範であると思うので、最初に夫婦を挙げるのです。
ところがその夫婦の生活さえも、時に、愛ではなく忍耐が支配することもあるでしょう。そうすることによってわたしたちは、やはり愛がなければと言うことを実感するのではないでしょうか。愛のない言葉だけの交わりは意味のないことに気付きます。 
次に「御使いの異言」と記しますが、これも口語訳では<御使いの言葉>となっていますが、これは神と語る言葉と言ってもいいでしょう。日本人同士は日本語で、ドイツ人はドイツ語で語ります。そして御使いは神と語るのですから、わたしたちの日常の言葉とは違うのです。
12章で語られた異言とは、神と語る言葉のことであり、それなら美しい言葉に違いありません。聞く者に、不快感を抱かせ、恐怖感を与えるようなものではないと思います。人間には理解できなくても、その美しさは感じられるはずだと思うのです。
しかし、その美しいと思われる御使いの言葉、異言にしても、その言葉によって神との愛が交わされるのでなければ、意味の無いものになってしまいます。わたしたちは、異言をもって神と交わることはしませんが、神を愛して祈り讃美しているでしょうか。また神の愛を受ける資格があるでしょうか。
異言は、語ることを誇示したり、自ら陶酔するため、自己満足のために与えられるものではなく、神と交わるためのものです。
異言は用いなくても、今わたしたちが用いる讃美のことばも、祈りの言葉も神との交わりです。しかし、そこに愛がなければ讃美も祈りも意味のないものになってしまいます。
このように、言葉は人との交わり、神との交わりにおいて必要なものですが、そこにもし愛がなければ空しいものです。やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じなのです。

 
2.預言・奥義・信仰があっても
教会の中に与えられた賜物を考えると、言葉の賜物、すなわち異言だけでなく、預言者や教師について語っていますから(12:28)、次に、預言とか奥義とか、信仰について語ります。
「預言」と言えば、旧約聖書の時代から続けられている大切な務めですが、これは一般に言われる「予言」のように、将来のことを予め言うことではありません。神のみ言葉を託され預かって語ることです。
確かに預言者が将来のことについても語りますが、それは、神が何を計画しておられるかと言うことを告げるのであって、預言者は神の御心を良く知り、神から託されたことばを語るのです。
「あらゆる奥義」と言うのは、あらゆることのもととなる神秘的なことであって、これもやはり、神について知っていることです。神に関することですから、普通には知ることが出来ません。ですから奥義なのであって、神秘的と言われるのです。 
次に「信仰」ですが、これは「山を動かすほどの信仰」と言われています。これは世界が変わるほどのことを意味しています。
山を動かすなどということは、少し前までは想像できないことでしたが、何時のころからでしょうか簡単に山が移され、まさに世界が変わると言うことを経験するようになりました。神戸市は「山 海へ行く」と開発した。
信仰とは、神を当てにすることであり、神の力を引き出すことですから、ブルドーザーでなくても、それは世界を変える力を持っているのです。
このように、(1)神の御心を知っていても、(2)奥義に通じていても、そして(3)世界を変えるほどの信仰の力をもっていても、「愛がないなら、何の値打ちもありません。2」と告白します。
もとより人は、神の前に無に等しい存在ですが、神の教会・キリストの体と言われる教会のために与えられた賜物さえ、もし愛がなければその輝きは失われてしまうと言い放ちます。

 
3.如何なる犠牲も
次に「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。3」と記されています。これは少し首を傾げたくなる話です。愛があればこそ、財産を施し、自分のからだを焼かれるために渡したり出来るのだと思うのです。そしてこれほどの犠牲は、誰にでも出来ることではないし、しばしば目にすることでもありません。
しかし、ここに記されているほどのことではなくても、人は、愛もないのにさも愛があるかのような、見せ掛けの行動をすることがあります。
本当は施したくもないのに、社会的体裁を取り繕うために施しをすることもあるでしょう。見せるために親切をすることもあるでしょう。
人は、たいした愛もない上に、自分を偽ること、人を騙すことを平気でするのです。聖書が言うところの罪とは、この自分の力ではどうしようもない、人間の本質を指して罪と言うのです。
確かに、わたしたちの内にもいささかの愛があります。いや、愛に似たものがあると言う方が正確でしょう。人のために犠牲を払い、愛に生きているように見せることが出来ます。でも、自分の利益の前には、その犠牲は脆くも崩れ去ってしまうのです。こんなとき人は、あの人は変わった、以前はあんな人ではなかったのにと言いますが、代わったのではなくそれが本質だったのです。 
そこで聖書は「愛がなければ 3」と言います。そして14章1節は、「愛を追い求めなさい」と言います。では、それがどのような愛なのかと言うことは、この13章4節からのところで語るのです。
わたしたちは、神との交わり、人との交わりに愛が必要なことを認めますが、一方、自分の内に愛がないと言う事実も認めなければなりません。そのことを率直に告白し、赦しを受けて、キリストの愛を、聖霊による愛を信仰によって受ける必要があります。神は、キリストの体である教会に、聖霊によって愛を満たしてくださいます(ローマ5:5)。
13:1~3では、愛がなくてもできることを語りつつ、愛がなければ一切は無益だ、と切り捨てます。愛がなくても出来ることで満足せず、愛がなければ出来ないことをする、それがキリストの体である教会です。
肉的な生まれながらの愛でなく、神の愛が注がれるように求めましょう。それは、妬まない、自慢しない、高慢にならない愛です。それについては来月お話しましょう。


                    (宣教者:六甲みどり教会牧師  岸本 望 師)