柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストのあわれみ」  マタイ15章21-31節

聖書にはキリストの顔かたちや身長体格は記されていません。私たちはキリストの姿かたちを知ることはできませんが、キリストがどのようなお方かがわかります。


1.キリストは憐れみ深いかたである

エルサレムでパリサイ人や律法学者の論争があり、イエス様はツロ、シドンの異邦人の所に行かれました。そこに娘が悪霊にとりつかれている女性がやってきて、直して欲しいと願いました。
弟子たちは追い払おうとしました。しかしイエス様は、カナンの女と話をされ、そしてその娘を直されたのです。人にはできない事をもキリストはなされます。おそらくは、その娘は大変な病で、手に負えないような病ではなかったでしょうか。「ひどく悪霊にとりつかれている」との表現からもわかりま。ですから、そんな病を癒すことは、人間的に見て大変なことであり煩わしいことでした。愛がなければ人を癒すことはできません。
そして当時、イスラエル人は他の国の人と交際しませんでした。24節のイエス様の言葉でもわかります。それが当時の人々の習わし、決まり事でした。いわばイスラエル人と異邦人を隔てる垣根があったのです。いま現在もイスラエルでは高い壁が張り巡らされ、パレスチナ人が自由に行き来できない事があります。隔ての垣根があることは不自由なのです。
しかし、キリストはその垣根を打ち破られました。十字架によってその隔てをなくされ、二つのものを一つに結ばれたのです。十字架で結ばれたものは二つあります。一つは神との和解であり、そして一つは人との和解です。キリストは預言されたごとく平和の君となられたのです。。
キリストは弱いものを憐れまれお方です。それはイスラエル人異邦人の区別なく、困っている人を助けられるのです。その後、ガリラヤに行かれたときも、体が不自由な人たちを癒されました。そこにキリストの愛が現され、神の栄光があがめられたのです。


2.信仰には必ず恵みがある

信仰は目では見えません。しかし、それは必ず形あるものとなって現れてきます。むなしくは終わりません。あの悪霊にとりつかれた娘は癒されましたた。母親の願いは聞かれたのです。「人は外見を見るが、神は心を見られる」と聖書にもありますが、イエス様はその女の人の心、信仰の姿を見られたのです。どのような信仰だったのでしょうか。

(1)熱心に求めた
「わたしを憐れんで下さい」と女は求めたましたが、主は一言も答えられませんでした。さらに女はひれ伏して、「主よわたしをお助け下さい」と求めました。しかし主はカナンの女を「小犬」と言われたのです。普通は腹を立てて、もう二度と頼まないといいますが、その女はなおも食い下がり求めました。

(2)神の言葉に対する従順
「主よその通りです。」彼女は素直に主の言葉を受け止め、自分をそのように認めたのです。「あなたは罪人です。」と言われたら素直に認められるでしょうか。

(3)神に対する謙遜
彼女は「食卓から落ちるバンくずはいただきます。」と答えました。子どもはイスラエル、小犬は異邦人、パンは恵みを表します。「その恵みのひとかけらでもいただきます。」と彼女は答えたのです。真に謙遜素直でなければいえないことです。

その信仰をイエス様は賞賛されたのです。不思議なことに、選ばれたイスラエルの人ではなく、異邦人の女の人に神の恵みは与えられました。私たちもまた神の前にへりくだり、神の言葉に対して素直であり、熱心に求めて神の憐れみに預かるものでありたいと思います。


 
                        (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)