柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の与えられる幸い」 詩篇84篇1-7節

ここに、幸いという言葉が出てきます。(4,5節)世の中の多くの人が幸福を求めます。「青い鳥」という童話の中で、チルチルとミチルの兄弟は、幸せの青い鳥を探して冒険の旅に出ます。様々な困難に遭いながらも求めていきましたが見つかりませんでした。どこに幸せがあるでしょうか。
幸いは英語でハピネス(happiness)で、ハプニング(happening)と語源は同じと言われています。言うなればこの世の幸せと言うのは、偶然に起こる幸いなのかもしれません。
しかし、聖書の与える幸いは、偶然的なものではなく、神様が与える幸いブレッシングつまり、祝福です。それは、偶然ではありません。むしろ、天地万物を創造された神様が、私たちに、与えて下さるものなのです。


1,神とともにいる幸い

1節の「あなたのお住まい」とは旧約聖書に出てくる神の神殿を指しています。元々は、幕屋すなわちテントでした。イスラエルの民が奴隷の地であったエジプトを出て以来、神の幕屋は彼らとともにありました。すなわちそれは、神の臨在をあらわします。神が共におられると言うことの具体的証拠でした。そして、彼らは礼拝するとき、神の幕屋に集まりました。そこで、いけにえを献げ、神を礼拝したのです。そして荒野を旅するとき、神の幕屋はいつもイスラエルの民とともにあったのです。
その後、ダビデ王が神殿を建てようとしましたが許されず、その子ソロモンが神殿を建てました。そこもまた、契約の箱が安置され、神の臨在の場、礼拝の場所となったのです。しかし、今は神殿はありません。なぜならば、私たちが生ける神の神殿であるからです。私たちの内に神が宿って下さるのです。そして、私たち自身は決してすばらしいものではありません。私たちは土の器である(2コリント4:7)と聖書は言っています。
しかし、そんな土の器にも神は宿って下さり、祝福と恵みを与えて下さるのです。土の器にしかすぎない、もろく壊れやすい私たちの内に、神様が入って下さったら、宿って下さるならどうなるかというと2節にその姿が出てきます。すなわち、「心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌い」とあります。おそらくは、神を礼拝する人が、神を慕い求めて神の神殿に行き、そのところで献げる礼拝の中に神の臨在を感じ、まさに身も心も癒され満たされる思いであったことでしょう。そしてまた実際に、心に平安が与えられ、ストレスからも解放され病は癒され身も軽く元気になったことと思います。新約聖書福音書を見れば、イエス・キリストに癒され元気になった人たちの姿を多く見ることができます。キリストを信じ受け入れるときに、神様の救いの御業がなされるのです。
ただし、神を喜ぶことは、心が強められていたり癒されていることを前提とはしません。たとえ、心の弱いものでも、また肉体が完全でない状態であっても大丈夫です。それは3節を見ると「雀さえも」とあります。「 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」(ルカ12:6)とイエス・キリストは言われました。価値のない弱いものでさえも神様は覚えて下さいます。私たちは雀よりもまさったものです。なおさら私たちを守り養い、祝福されないはずはないのです。神様は私たちを愛され、私たちは神を喜びそしてほめたたえることができるのです。(4節)


2,信じることのできる幸い

5節にも「なんと幸いなことでしょう」と出てきます。その人はどんな人かというと、「その心の中にシオンへの大路のある人は」とあります。シオンとはイスラエルの都エルサレムであり、神殿のあるところです。シオンへの道が心にある―別のことばで言うなら、神を慕い求める心、求道心と言えるとおもいます。その心のある人は幸いである。神様は祝福を与えると言っているのです。
たとえ苦しみにあっても、神様はそれを乗り越える力を与えて下さいます。
6節には「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」とあります。涙の谷とは荒れ果てた不毛の土地であり、いくら努力してもがんばってみても実りのない土地を意味しています。私たちもまた、今の時代何をやってもだめ、自分にはもう力もないとあきらめているのではないでしょうか。しかし、あきらめるのはまだ早いのです。私たちには不可能であっても、神には力があります。その不毛の地を「泉のわく所と」すると神様は言われます。その泉とはイエス・キリストです。私たちの、ひからびた心をも、十字架の愛をもって癒し潤して下さるのです。その恵みと力は無限です。キリストを信じるなら、下から泉が湧き、上からは恵みの雨が降るような、期待と喜びに満ちた人生に私たちは変えられるのです。そして、かならず、恵み豊かな神の御前に出るときが与えられます。

京都府綾部で郡是製糸(後のグンゼ株式会社)を創業した波多野鶴吉さんは、若い頃放蕩三昧の生活をし、事業には失敗し、大病を患い、自殺しようとしたそうです。失意と絶望の中に、彼はキリスト教に触れ、牧師の導きでイエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、人生が変わりました。彼は製糸工場を起こし、その職場で働く人たちと一緒に聖書を学びました。社員教育にも聖書を取り入れました。
事業も祝福されました。当時輸出するとき、見本とは違うもを混ぜるのがありました。しかし、グンゼは見本通りのものを入れたのです。それでは経営は成り立たない、今に倒産すると言われましたが、なんとアメリカでは「グンゼは信用できる。検査は入らない」と絶大な信頼を得て取引は多くなったのです。信用は本当の豊かさを勝ち取るものです。そして、その信頼はどこから来るのか、イエス・キリストがわたしのために十字架に死んで下さった。その愛の信仰です。愛の力は自分ではなく、神にあるのです。神の愛の力と祝福を受けて、神とともに歩ませていただきましょう。


                      (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)