柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「教会の力」 使徒の働き12章1-17節

 教会の力は、真のとりなしの祈りをする人がいるかいないかというところにある。とりなしの祈りは、直接見える形で現れにくいし、相手に直接伝わらないということからして、真のとりなしの祈り手が育ちにくいと言える。
 神にとりなし続ける祈りとは、どのようなものなのか。


1.神のあわれみの発露による祈り
 ヘロデ王は、クリスチャンを迫害すればユダヤ教を遵守している人々の支持を得ることができ、歓心を買うことができると判断したために、使徒ヤコブを殺害し、続いて教会の最高指導者ペテロを投獄した(1〜5節前)。この時、エルサレム教会は最大の危機に直面し、なすすべもない状況に追いやられた。しかし、教会には一つの方法・武器を持っていた。『教会は彼のために、神に熱心に祈り続けた』のである(5節後)。この神へのとりなしの祈りが、絶望的な状況を逆転させたのであった。厳重な警戒の中を『御使い』の介入による救出であった(6〜10節)。
 ところが不思議なことに、教会は熱心に祈っていたのであるが、実際にペテロが救出されて自分たちの祈っている所にやって来ると、『あなたは気が狂っているのだ』とそれを知らせた女中ロダを責め、ペテロ本人を見ては『非常に驚いた』のである(11〜16節)。祈っていた教会は、不信仰だと冷たく批判することはやさしいが、救出されることを期待しつつも、状況打破は難しいと受け止めたようである。これは確かに、不完全な信仰、不信仰な祈りであるが、そんな教会の祈りに神は耳を傾け、彼らの願うところと思うところの全てを越えて豊かに答えてくださったのである。
 祈りの答えは、祈る側の完全さによるのではなく、どこまでも主なる神のあわれみの発露によるものなのである。であるから、不可能に見える状況の中にあっても、あきらめないで熱心に祈り続けることが大切である。


2.神のみこころに合わせる祈り
 なぜヤコブは殺され、ペテロの場合は救出されたのか。ペテロの場合は熱心に祈ったが、ヤコブのためには祈っていなかったのか。しかし、これはどこまでも、全て人間の理解を越えた神のご計画であり、神の器を神のみこころのままにお使いになって、神の救いの歴史を拓いて勝利していかれたのである。事態が自分たちの期待どおりになっても、そうでなくても、神のご主権に変わりはないのである。
 主イエスゲッセマネの祈りで、『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』と祈られたことは、聞き入れられなかったと言えなくもない。『しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください』と祈られたことは、十字架において成就したのであった(マタイ26章39節)。このように、祈りとは、神のみこころにまで私たちの願いと思いを高め、神のみこころに合わせることだと学ぶことである。
 ヤコブの死は、教会が祈らなかったと簡単に決め付けてはいけない。祈りの答えが私たちの期待どおりでなくても、すべてにおいて主導権を取られるお方が主なる神であることを知って御名をほめたたえることができたならば、それこそが祈りの答えと言うべきであろう。
 教会の真の力は、外側の見える世界にではなくて、むしろ隠された世界とも言える「とりなしの祈り」を真になし得るか否かにかかっているのである。そこから主のみわざが始まるのである。

               (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)