柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「御霊を受けた者」  第1コリント3章1-9節

 今朝は、第1コリント第3章を学びます。2章は大変難しいところでしたが、結論的には、キリストの十字架以外には語るほどのことはないと言うことでした。そしてその中で、神の御霊の働きについて、御霊はキリストの十字架を信じさせてくださる方だ、と言うことを語っていました。さらに言えば、御霊の働きがなければ、神を知ることも信じることも出来ないと言うことでした。


1.御霊に属する人
 ですから、キリスト信者はみな「御霊に属する人」と呼ばれ、キリストの十字架を信じた人々のはずですが、パウロは、コリントの教会の人々が「御霊に属する人」とは思われず、「ただの人(普通の人=口語訳)3節」すなわち「肉に属する人」に等しいと感じたのです。
 コリント教会の人々がみな、神の霊、御霊を受けていなかったわけではないと思います。もし御霊を受けていないのであれば、信仰を持つことはなかったはずだからです。
 ところでわたしたちの信仰に、程度の差があることは否定できません。信仰の浅い人もあれば、深い人もあるでしょう。コリントの教会の人々は、概ね信仰の浅い人とパウロには感じられたようです。
 そのコリントの信徒のことを「肉に属する人」と呼んでいます。これはいかにも世俗的な人、信仰に縁のない人のように聞こえますが、そうではなく「御霊に属する人」としてまだ十分に成長していない人と言う意味です。ですからキリストにある幼子」と言い換えているのです。
 果たしてわたしたちはキリストにある大人なのでしょうか、それとも幼子なのでしょうか。


2.肉に属する人
 次に、コリント教会の人々には「乳を与えて、堅い食物を与えませんでした 2節」と記されています。幼子が堅い食物ではなく乳で育てられることは十分理解できますが、信仰の食物の乳とは何でしょうか。堅い食物とは何でしょうか。
 教会では、<初心者のための集会>などと言って、伝道集会を開きますが、この<初心者のため>と言うのは、教えを語る形式や方法の問題であって、教えの本質を意味しているのではありません。キリスト信仰は誰にでも開かれたものです。ですから、乳とか堅い食物と言うとき、それは福音の教え方、説き方と言うことです。それは初めて福音を聞く人には、それに相応しく語ると言うことです。
 コリントの教会が、なぜこのように厳しい批判を受けているのでしょうか。それは「あなたがたの間にねたみや争いがある 3節」と記されていることに表されています。
 「信仰と生活」と言うものは、別個のものではありません。信仰が衰えれば、必ずその生活に問題が表われてきます。堅い食物をとることのできないような信仰生活には、悪意や偽りが出てくるものです。
 「あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか 3節」と記しています。「ただの人のように」と言うのは、信仰もなく、御霊によって神を知ることもない人のように、と言うことです。
 「肉に属する人」とは、「御霊に属する人」に対して言っていることばで、ある人はこれを、<神に対して責任を負うことの出来ない人>と言っています。
 「歩んでいる 3節」と言うのは、パウロがよく用いた言い方で、<生活する>と言うことです。信仰者はみな神の霊を受けたはずです。と言ってもそれは目に見えたり、手に触れたりすることではありません。神を信じることが出来たと言うことが、御霊を受けた何よりの証拠です。
 それなのに、彼らはそれらしく生きることが出来ないで、普通の人のように、神の霊を受けていない人のような生き方をしていたのです。神を信じると告白しながら、神に対して責任を果たすような生き方が出来なかったのです。これではキリストの十字架が無力なものになってしまっているではありませんか。
 その結果、「ねたみや争い 3節」が生じてきているのです。
 人間の生活があるところ、いつでも問題になるのは妬みであり、それが発展して争いが生じてきます。妬みのあるところ、必ず争いが生じます。それが教会であっても同じです。そこに分派が生じます。それがコリント教会だったのです。


3.分争・分派
 ここでもう一度コリント教会の分派について言及します。開拓されて間もない小さな教会に違いないのですが、早くも分派が起こります。
 ここにパウロとアポロの名前が記されますが、それは、この二人を担ぎ出す人々によって二大勢力が形成されていたからでしょう。
 パウロとアポロと言えば、対照的な存在であり、それぞれ個性的であったと思われます。それぞれの働きで救いに導かれた人々は、自分を導いてくれた人に身びいきすると言うことは、起こり得ることです。しかし、それだけで教会の中に深刻な分派が生じるとは考えられません。
 そこには妬みがあるとパウロは言います。妬みは偏った愛から生じてきます。自己中心で、自分だけ愛されたい、注目されたいと言うことから妬みが出てきます。自分だけがパウロに愛されている、自分は格別アポロに愛されている、と言う思いから分派・分争が生じました。
 これは、コリント教会だけの間題ではなく、多くの教会でこの種の問題が生じています。このようなことが起こるのは、信仰によって、キリストに生かされ、導かれていることを忘れて、目先の人間関係だけを重視するからです。
 「キリストの十字架が虚しくならないため 1:17」にも、御霊を受けた者としての自覚を持って、信仰者らしく、神に対して責任を果たす生活を送りましょう。

          (説教者:柏原教会 協力牧師 岸本 望)