どこまでも神は絶対的なお方ですが、このお方を『・・・父よ・・・』(マタイ6章9節、エペソ3章15節)とお呼び申し上げて、親しい交わりをもたせていただき、祈りをささげさせていただけることは幸いです。
さて、主イエスがいちじくの木をのろった言葉を聞いていた弟子たちは、その翌日、そのいちじくの木が根元から枯れている光景に出会いました。彼らの心中の驚きは相当なものでした(20〜21節)。しかし主イエスは、彼らの胸の内がまだ熱いうちに、信仰に裏打ちされた力強い祈りの力について教えられました。
父なる神への祈りには条件があります。
Ⅰ.疑わないで信じ切る 22〜24節
主イエスが『心に疑わないで』と語られた背後には、この時弟子たちは、まるで風に吹かれて揺れ動く海の波のような状態でした。それは、一方で神のみことばに基づいて信じ祈ると言いつつ、片一方では別の基準を持って「神の言われる通りにはいかない」と疑う心です(ヤコブ1章6〜8節)。
『神を信じなさい』とは、神への信仰を持ちなさいということで、それは、神への祈りを信じなさいということでもあります。逆に言えば、神への祈りを信じることは、神を信じることにほかならないのです。もし、私たちが祈らないとしたら、それは神でなくても出来ると思っているからではないでしょうか。
主イエスは大胆にも、山を動かすことのできる祈りを教えられました。不可能を可能とする神への信仰です。「山」とは、動きにくいものの代表で、困難とか妨げを意味しており、それが「海の中にはいる」とは、山が除かれることを表わしています。人ではなく、神にしか除くことの出来ない「山」、そして全ての人の「山」となっているものこそ、罪と死の山です。それは、主イエスの十字架と復活の救いの事実によって、取り除かれたのです。
十字架の贖い、復活の主のいのちに生かされる恵みを体験した者が、審きよりも和解といやしがはるかに大きなものとなり、「父なる神」への真実な祈りが生まれるのです。
Ⅱ.赦しの恵みに立ち続ける 25〜26節
主の祈りを思い起こさせる祈りです(マタイ6章14〜15節)。ここには、祈りの条件として、正しい対人関係をつくり、また保つことを勧めています。
なぜ人との関係が大切かと言えば、神との関係が大切だからです。神との関係が正しくないのに、祈りが答えらることを期待するのは虫が良すぎます。それは実際には、『天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまち(罪)を、ゆるしてくださるであろう(赦してくださいます)』と、祈りを妨げるのは、疑いとともに罪によるのです。祈ろうとするとき、罪が解決されているかどうか精査する必要があります(詩篇66篇18節)。
確信して祈りさえすれば、何でも聞かれるのではありません。神に喜ばれない生活をしていながら、祈るときだけご都合主義のようにして信仰を働かせて祈っても聞かれないのです。祈りをささげる前に、罪の問題をないがしろにしていては、きれいごとの祈りを聞いてくださらないのです。
信じて祈る祈りにこそ力があります。その信仰が確信に至るまで祈りたいものです。祈りの中で、疑い・罪・不信仰と闘い、主イエス・キリストにあって勝利させていただきたいものです。祈りにおいて取り扱っていただくことは、何と豊かな実を結ばせる幸いなことでしょう。
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)