近年、日本社会は安全神話が崩壊したと言われています。安全だと思っていた大地が、防衛体制が、社会機構が、教育の現場が、家庭が崩れかけています。
そして、安全だと思っていた宗教も危ない、怖いといった心境を一般に与えています。
こうした様々な安全神話の崩壊の中で、私たちの存在そのもの・全人格という人間の守り、魂の守りはどこにあるのでしょうか。互いは、迷いやすい、自らの内に不安定なものしかないと感じています。
ここに、そんな私たちの『たましいの牧者であり監督である』(Ⅰペテロ2章25節)、そして『魂を生き返らせてくださる』(詩篇23篇3節)神に『たち帰った』と決意させていただきたいものです。
Ⅰ.魂を憩わせてくださる 詩篇23篇(新共同訳聖書)
私たちの魂(存在そのもの・全人格)は、疲れやすく、不安におびえ、傷つきやすく、様々な気遣いに疲労困憊しやすいものです。また、『死の陰の谷』を行かなければならない時があったり、『わたしを苦しめる者』がいたりします。
そうした『さ迷って』いる羊の『たましいの牧者(羊飼い)であり監督者(見渡し見守る人)である』神は(Ⅰペテロ2章25節)、憩わせてくださる神です。共にいて、襲いかかってくる敵を撃退し、一人ひとりを忘れずに休ませ、憩わせてくださいます。さらに、試練のただ中にあっても、絶えず一緒にいて歓待してくださり、癒してくださり、内から喜びと感謝と希望に満ち溢れさせてくださいます。
このように魂を憩わせてくださる恵みは、追いかけるほどの大きなものです。私たちは、一体何に追われる日々でしょうか。不安か、苦しみか、痛みか、失望か、死の恐れか、罪の呵責か。主なる神であるキリストにとどまり続けるなら、恵みが追いかけてくるのです。
Ⅱ.魂をいやしてくださる Ⅰペテロ2章22〜25節
ここでは、羊飼いの姿が一段と深められ、広げられています。それは、魂の問題も一段と深められています。『死の陰の谷』とは、本質的には『罪』のことです。神抜きの的外れな生き方こそが、魂を最も不安にさせ、疲れさせ、恐れさせ、傷つけ、憩いを奪うものです。
その、罪の処理は、人間の努力・信心では成し得ることができないものです。では、一体誰が。私たちの根本の敵である罪の力と闘って、私どもの罪とその結果の死を十字架で負ってくださったイエス・キリストによってのみです。
それは、『わたしたちが・・・義に生きるため』であり、主なる神の面子にかけても、神との真っ直ぐな関係に導かれるためです(詩篇23篇3節)。そのような罪の重荷から解放されたことによって与えられるのが、『いやされた』との経験です。罪の赦しと罪の結果の死からの解放なくして、魂のいやしはないし、また魂は生き返ることはできないのです。
私たちの人生は、A+B+C+Dと、だんだん様々なものを加えていきます。一生懸命に加えていきます。ところがその人生の前に括弧があり、後ろにも括弧があり、その括弧の前にマイナスがつくと、足してきた事柄の最後はマイナスとなります。それが、聖書が言う『罪の支払う報酬は死である』ということです。逆に、括弧の前にプラスである、イエス・キリストを置くなら、罪と死に対する勝利があるのです。
今、イエス・キリストに『たち帰った』との信仰の決意をさせていただく、たち帰り続けて喜んで生きる一人ひとりでありたいものです。
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)