今日はペンテコステの日です。日本語では五旬節と言っています。キリストが復活されて50日と言うことですが、元々は大麦の収穫祭でした。しかし、キリストが死からよみがえられて永遠のいのちを与えて下さる。これは私たちにとって大きな収穫です。
いのちほど大切なものはありません。そして神様は私たちに人生の収穫として永遠のいのちを与えて下さいます。
ユダヤ人の迫害を恐れていたペテロたちは、部屋に閉じこもっていました。しかし、約束の助け主 、 聖霊が彼らに降られたとき、彼らは力を受け、大胆にキリストの救いを話しました。
ここではダビデの詩篇を引用して語っています。詩篇の16篇8節からの引用です。
1,神の臨在
ペテロはなぜこの詩篇を引用したのでしょうか。それは彼自身が皆の前で立って語ることが、神の臨在を現していることにほかならないことを証しするためでした。彼は人を恐れていました。また、自分がうそをついて神様にたいして罪を犯した、自責の念にかられて、表に出ることができない、大胆になれない、そんな弱さが心の中にあったと思います。
しかし、彼の弱い心をも、イエス・キリストは十字架ですべての罪をゆるしてくださり、また助け主御聖霊によって力が与えられ、大胆に語ることができたのです。
彼の信仰は、もう逃げ隠れしない。何よりも、「私はいつも、主を前にしています。」という信仰です。神様の前に自らをさらけ出す。一点の曇りもない彼の真摯な信仰をこのダビデの詩篇を引用して語っているのです。
ダビデ自身も罪を犯しました。バテシバとの姦淫の罪において、神から隠れ、罪に罪を重ねて夫のウリヤを激戦地に送り殺してしまったのです。しかし、預言者ナタンにより、示され彼は罪を告白し、その罪を赦していただき、神様に従う者となったのです。それ故、神様は彼を祝福されました。外敵に勝利し、そして国に平安をもたらしたのです。
彼の力はどこから来るのか。「主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。」と証ししています。主がおられる、それが彼の力の源です。ペテロも同じでした。
主がおられる、それが彼の力の源であったのです。それは私たちも同じです。
主が、おられるなら揺るがされることはないのです。
それ故に、心は喜び、舌も喜び、賛美と感謝に満ちあふれるのです。私たちも、主が共におられるその信仰を持つなら、不安や恐れが私たちの心から追い出されて、賛美と喜びに満ちあふれるのです。これがペンテコステの喜びです。
2,死に打ち勝つ
そして、もう一つの喜びは、死に勝利することです。27節に「私のたましいをよみに捨て置かず、…滅びをお見せにならない」それは、ダビデが神様は自分の子孫から救い主がお生まれになることを告げられていたことですし、その救い主が死からよみがえられることをも予見していたからです。彼は真に霊感によって「私のたましいをよみに捨て置かず」と語ることができたのです。この事もペテロは、イエス様が復活されたことの預言として、理解し受け止めることができました。
またそれだけではなく、自分のこととして信じ受け入れることができたのです。
「敬虔な者」とありますが、神を恐れ心砕かれて聖なる者とされることです。彼はうそをつき、それが赦され、真に「敬虔な者」に変えられたのです。
十字架には力があります。私たちの罪をきよめ、十字架の血潮によって罪を洗い流し、御聖霊によって、確信が与えられるのです。
そして「あなたは私に、いのちの道を知らせて下さいます。」とあります。私たちの歩むべき道を教えて下さるのが御聖霊です。「これが道だ、これに歩め」と後ろから声がし、後押ししていのちの道に進ませて下さるのです (イザヤ 30:21)。
そして御聖霊は、干からびて渇ききった心をも、神様の愛、ひとり子をも惜しみなく与える愛を私たちに注いで下さいます。ですから、いのちの道を歩むとき、神様は喜びで満たして下さるのです。
ダビデも満たされ、ペテロも満たされました。私たちも満たして下さることができます。
(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)