毎日猛暑が続き、うだるような暑さの中で私たちは生活しています。エジプトを出て荒野を旅したイスラエルの民も同じような状況だったでしょう。しかもエアコンもない天幕で生活しますからもっと大変であったと思います。
彼らのよりどころは何だったでしょうか。全能の神です。神様ご自身が自ら彼らを守られたのです。詩篇91:1には「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」とあります。神様が彼らを覆って守られたのです。
今も信仰は同じです。救い主イエス様は私たちを守ってくださり、いのちを与えてくださるのです。
1,いのちを与える死
イエス様の元にはたくさんの人が来ます。外国から来たギリシャ人もやってきました。真の救いは、ユダヤ人もギリシャ人も区別はありません。どんな人でも救われるのです(ローマ1:16)。天国の門はどんな人にも開かれているのです。
イエス様は、一粒の麦のことを話されました。地に落ちて死ななければ、一粒のままだけどもし死ねば、豊かに実を結ぶと言われました。それは、十字架のことです。イエス・キリストは十字架で死なれました。私たちのすべての罪を赦すために、ご自分が身代わりとなって命を捨て、私たちを愛し永遠の滅びから救われたのです。ここに愛があります。そして、十字架によって新しいいのちが与えられたのです。
2,神を愛するいのち
新しいいのちとは不思議なものです。自分のいのちを愛する者は豊かな実―永遠のいのちを失い。自分のいのちを憎む者は永遠のいのちに至ると言われました。
この世は自分の命を守ります。自分の命ほど大切なものはありません。しかし、神の愛に生かされる生き方はそれとは違うものです。自分の命を憎むものだと言われました(25節)。今の時代でも、この世で自分の肉の命を守ろうとする者は、永遠のいのちを失い、逆に自分の命を憎むもの、神様に生涯をかける者に神様は豊かな祝福を与えられ、それは必ず永遠のいのちに至るのです。
3,キリストに仕える
詩篇91篇には全能者の陰に宿る人の幸いが歌われています。今現代に当てはまる生き方は何かというと、26節に言われているキリストについて行く、キリストのおられるところに共にいるということです。
もっと簡単に言えば、パウロが言ったように、「キリストが私のうちに生きておられる」と言うことです。聖書の中でキリストについて行く人はたくさんいました。なぜなら、病気は癒やされ、悪霊は出て行く、元気になり喜びに満たしてくださったからです。ですから、私たちも癒やされ、悪しきものを自分の心の中から追い出していただきたいと願う人はキリストについて行くことです。確かに容易ではありません。日々十字架を負って従っていくことです(ルカ9:23)。
そして、全能者の陰に宿る人はキリストにあって仕える人です。キリストに奉仕をする人です。その人は具体的に言うなら、陰にあって奉仕する人です。それは、目立ちません。人からもわかりません。しかし、神様はしっかりと見ておられます。知っておられます。ですからイエス様は言われました。「父はその人に報いてくださいます」(26節)。天において、素晴らしい報いが与えられるのです。それが、神の陰に宿って生きる人の幸いです。私たちもキリストの陰に立たせていただき、永遠のいのちの喜びにあずかり、仕えるものとさせて頂きましょう。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)