柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「私たちの交わりは本物か」使徒行伝5章12〜16節

 三位一体の神との交わりを深める中で、互いの相違を意識しやすい自らを認めて祈り、共通のものにしっかりと目をむけていくことが大切です。
 原始教会の内外の様々な課題・問題に神が生きて働かれたことに対して、人々に神への畏敬の念が生まれ、その結果伝道が積極的に展開されていきました。そうした中で、本箇所は、教会の本来のあるべき交わりを問いかけています。


Ⅰ.主に贖われた者の交わり

 『ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかった』と、「だれひとり」と念を押すように語っています。それは当時のキリスト者の交わりは、キリスト者でなければ決して入っていくことのできない明確な性質があったことを示しています。決して、お高くとまっているとか、閉鎖的であるというのではなく、そのままでは入っていけない何かがあったということです。
 このことは、非常に大事なことです。これがなければ教会ではないという、キリストの十字架によって贖われた者たちの持つものでした(Ⅰヨハネ4章10節)。それは、とてもこのままでは仲間になれないという潔さ、輝き、一致などが、そこにはあったのです。誰でもがそのまま加われるとしたら、それは真の教会の交わりとは言えないのです。


Ⅱ.周囲から尊敬される交わり

 彼らは尊敬され、『すべての人に好意を持たれていた』(2章47節)のです。周囲から「あの人たちは自分たちとは違う」と思われていたのです。自分たちとは違うから、一人も交わりに加われなかったのであり、同時に自分たちとは違うと思われるほど『民衆は彼らを尊敬していた』のでした。
 たとえ私たちが、内部では固い結束を保っており、大きな活動をしたとしても、キリスト者でない人々から尊敬されないとしたら、私たちの交わりを反省してみなければならないでしょう。神よりも人を見る日本において、この点は特に大きな意味を持っています。


Ⅲ.救われる男女が加えられる交わり

 他の人々は一人も交わりに加わらなかったと記されているすぐ後に、『しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた』と証言されています。これは矛盾でしょうか。否、一人もそのままでは交わりに加われなかったが、罪を悔い改め、キリストを信じた人たちが起こされ、結果的にはその交わりに加わるようになったというのです。
 救われる人たちが『男女とも』増えていったところに(女性がペンテコステ以後初めて記述されている)、教会の交わりが本物であった証しがあります。
 「交わり」と言うと、皆が内側を向いている「輪」に譬えられがちですが、「私たちの交わり」は、皆が同じ方向を向いている交わりです。同じ方向には、同じ主なる神を向いてささげる「礼拝」であり、同じ使命に生きる「福音の伝道」です。教会は、このような交わりの集まりであり、群なのです。このために、皆で共に祈り、ここに立たせていただく必要があります。


                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)