柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「死の恐れからの解放」 ロ−マ人への手紙6章23節

                    (地域コイノニァ集会でのメッセ−ジ)

 先行き不透明であったとしても、たった一つ分かっていること、決まっていることがあります。人は誰でも、必ず「死」を迎えるということです。「いつ死んでもかまわない」「死なんか怖くない」と言われる方があったとしても、単に強がりということが多いようです。


Ⅰ.なぜ、死を恐れるのか

 死の恐れは、何と言っても人間の根本的な恐れだと思います。多くの人々は、しかしこの死ということをまだ先のことだと思いやすいのです。私自身は、高校一年生の時に、最も親しくしていた友人が一晩のうちに事故死しました。その時、死はまだ先のことではない、いつでもそこらに転がっている現実であることをしみじみと思わされたことでした。反面、多くの人々は、死は他人のことだと錯覚していることがあります。
 また、死んでしまえば喜びも楽しみもなくなる代わりに、痛くもかゆくもない、無になることだと考えている人がおられます。そして、死というのは自然のことだと考える人もあります。
 そう言いつつ、多くの人は死を恐れている、それが現実ではないでしょうか。死の恐怖を乗り越えようとして、いろいろな思想や哲学や宗教を生み出してきた人類なのですから。たとえてみれば、私たちの人生というのはちょうど肉体という時限爆弾を抱えているようなものです。何年何月何日の何時かということは私たちには分かりませんが、その時がカチャとくると私も死んでいく、肉体が失われていくのです。聖書に、『(私たちは)死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者』(ヘブル2章15節)と証言されているとおりです。


Ⅱ.だれが、解放してくださるのか

 ところで、死を恐れることの根本の原因はどこにあるのでしょうか。聖書は、『罪の支払う報酬は死である』と、罪の呵責からくる苦しみ、罪の虜になっている苦しみであると言います。それが、死んだら人生の総決算をしなければならないという良心のうずきとなるのです。『一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが、人間に定まっている』(ヘブル9章27節)との聖書のことばを、あなたはどう受け止められますか。
 しかし聖書のメッセ−ジは、『(イエス・キリストは)死の力を持つ者を、ご自分の死によって滅ぼし・・・奴隷となっていた者たちを、解き放つためである』(同2章14〜15節)と宣言しています。すなわち、イエス・キリストは、その十字架の死をもって死の力を滅ぼして、私たちを死の恐怖から解放してくださったのです。だからこそ、『神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのち』なのです。私たちがするべきことは、キリストの十字架の下に身を隠す、身を寄せる、信じて頼るだけで、そうした者をその罪から、永遠の滅びから救ってくださるのです。
 鏡の前で自分を直視できない方がおられました。あるメッセ−ジを通して、「自分では正しいと思っているが、とんでもない方向違いの人生を歩んでいないか」「誰でも自分の仮面を脱がなければならない真夜中がくる」と問いかけられ、「人生は片道切符をもっての旅のようなものである。やり直すなら今である。愛の神の救いの懐に、そのままで、飛び込んでみては」との勧めに、信仰の一歩を踏み出されました。そして、「もう死の恐れの中にいないのだ。私は洗礼を受けたい」と、力強い人生をスタ−トされました。
 最初に紹介しました、私の友人の死を通して教えられたことには、「また明日は、私の人生の怪盗だ」ということです。「また明日」ではなく、一度しかない人生を、神の愛の現れであるイエス・キリストの罪と死からの救いをいただいて歩み出すことが、一人ひとりにとって最も大切なことなのです。

                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)