柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「新しいいのちに生きる」 ローマ人への手紙 6章1∼4節

 私たちはイエス・キリストを信じて救われたと証しします。その時にバプテスマ 洗礼 を受けたと言います。洗礼は信仰告白の印として水のバプテスマを受けます。

 バプテスマ自身に私たちを変える力はありませんが、イエス・キリストにつながることによって私たちの人生は変わります。


1,罪の問題

 聖書が私たちに示している救いは、罪からの救いです。罪と言っても、法律違反の罪ではありません。ローマ1:29~31 に出てくる「貪欲、悪意、妬み、争い、中傷、侮り、高ぶり、親に逆らい、不誠実、情け知らず、無慈悲」等です。それは死に値すると言われています。ですから私たちは神の前に、一つも罪はないと言い逃れすることはできません。

 それではどのようにして私たちは罪から救われるのでしょうか。罪の問題は解決できるのでしょうか。

 パウロは「罪に対して死んだ私たち」(2節) と言っています。私たちは罪に対して死んでしまった。果たしてそんなことがあるのでしょうか。しかもこの手紙を書いているパウロは生きていたのです。死んでしまったら、手紙を書けるはずはありません。
しかも、彼自身だけのことではなく、「私たち」と言っているのです。これを読んだローマのクリスチャンたちであり、今読んでいる私たちも含まれるのです。罪の解決はどこにあるのでしょうか。
十字架です。キリストの十字架によって、キリストが身代わりになって死んで下さったことにより、私たちの罪の代価が支払われて赦された、そう私たちは信じています。
信仰によって救われた。私たちができることは信じることです。

 問題は、救われた私たちがなおも、罪に対して十分な解決を得ているかどうかが問題です。

 人を恨んだり憎んだりすることは良いことでしょうか。おそらく良くはないだろうと思います。そのような状態では、心に平安はありません。喜びはあるでしょうか。

 パウロはかつてクリスチャンを憎んでいました。そして迫害していました。そこには喜びはなかったと思います。もちろん感謝もなかったと思います。
ですからローマ7:14~20節には彼の心の苦しみが語られています。それ故に彼は迫害者であったのです。しかしその罪がイエス・キリストによって赦されました。

 彼はローマ5:1で「イエス・キリストによって神との平和」すなわち心平安が与えられていると言っています。
罪に対して死んだものであるなら、罪に惑わされることもなければ罪に対する不安や恐れもなくなります。どうすればそのようになることができるでしょうか。


2,キリスト・イエスにつくバプテスマ

 3節に「キリスト・イエスにつくバプテスマ」とパウロは言っています。つくとは一緒になる、一体となるという意味です。
キリストと一体となる。すなわちキリストの死にあずかる。キリストの十字架の死が、私の死となる、4 節には「キリストとともに葬られた」と言っています。
何が、十字架にかけられ葬られたのか。6節に「私たちの古い人がキリストともに十字架につけられた」とパウロは言っています。
古い人とは、私たちの自我です。自己中心的な思いです。聖書で言うなら肉の心です。それが十字架につけられた、キリストとともに死んだ。
これも信仰です。十字架で罪が赦されたと信じるなら、さらにはその罪を犯す元となっている、自分の自我もキリストとともに十字架につけられたということです。

 パウロはガラテヤ書2:19,20節でも「私はキリストとともに十字架につけられた。もはや私が生きているのではない、キリストが私のうちに生きておられるのである」と言っています。
それが彼の信仰であり、彼の古い人、自我はキリストとともに死に、ローマ6:4 にあるとおり「死にあずかるバプテスマ (これは聖霊バプテスマのことでありますが) キリストとともに葬られた」のです。
これが彼の十字架体験であり、私たちも同じように信じる必要があるのです。すなわち、十字架によって自分の魂・心がきよめられる必要があるのです。

 罪が心の中にあって楽しいと言う人はいないと思います。私たちもまた古い人がキリストとともに葬られ、よみがえられたキリストが私の内に生きておられる。
復活の主が、私の新しいいのちとなって下さり、キリストの愛の中に生かされる、新しいいのちに歩む者とさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)