柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「柔和な人」 マルコによる福音書11章1〜11節

 主イエスが『主がお入り用なのです』と『ろばの子』を用いて、その背には弟子たちの上着が投げかけられ、そこに乗られてエルサレムに入城されました。
その時群衆は、自分たちの上着または葉のついた枝を道にしき、『ホサナ(どうかお救いください)、ホサナ・・・』と叫んでの歓迎をしました。これは、彼らが「王」としてのイエスのイメ−ジを描いていたのです。
 しかし、この時の主イエスを、旧約聖書はかく預言をしています。『・・・見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。・・・』(ゼカリヤ書9章9節)と、柔和で,、謙った平和の王でした。


Ⅰ.いやしめられた受難のしもべ=キリスト

 ソロモン王の時代以後、乗り物の主役は馬であり、ろばは婦人や子供の乗り物、また荷物の運搬に使われていました。主イエスは、人々が期待するような地上の権力を打ち立てる戦いの救い主ではなく、わざわざろばの子に乗って、いかにも穏やかで、柔和な、平和をもたらす救い主でした。ろばの子に乗っておられる姿が、無言にキリストの本質を物語っていると言えましょう。
 さらに「柔和」という語には、本来「謙った」とか「いやしめられた」という意味が含まれています。従って、ろばの子に乗られた主イエスには、謙って、いやしめられた受難のしもべの姿が表わされているのです。
 大歓迎をした五日後には『十字架につけよ』と狂い叫ぶ群衆、また『ののしる』人々に対して、主イエスは沈黙し続けられたのです(Ⅰペテロ2章22〜24節)。このキリストの無言・沈黙は、その無力を表しているのではありません。主イエスは問いかけ、求めてくる人々に無関心であられたのでもなく、冷ややかであられたのでもありません。その時その時に、意味をもって、相手がどのような態度であっても、愛の余りに黙されたのでした。そこにキリストの柔和さがあります。その頂点が、沈黙を守り、下りることも出来たのになさらなかった十字架のお姿であり、とりなしでした。そこには、父なる神に対する全き信頼をもって、一人ひとりの、全ての人の罪と死と滅びからの救いを成し遂げようとされるゆえに持たれた柔和でした。


Ⅱ.こころ砕かれた主のしもべ=キリスト者

 さて、王なる救い主として迎え入れた人々は、その大歓迎とは裏腹に、キリストについての深い理解が欠け、先の受難のしもべとしてのキリストのイメ−ジはもてないでいました。そうしたことが、十字架の主イエスに対しての豹変したような態度をとったことになったのです。
 自分の先入観でキリストを理解し、自分の納得できる範囲でのみキリストを受け入れ、理解と説明のつかない部分は、一切切り捨てようとする姿勢の中には、真のキリストのイメ−ジを持つことはできません。自分の中で定めた小さなものさしが、聖書が語るキリスト像を受け入れることを邪魔させるのです。
 柔和なお方であるキリストに対して、私どもは柔和な者であらせていただきたいものです。一言で言えば、主イエスとそのみことばに対して、こころ砕かれ、謙る者です。それは、自分の主張やわがままな性質にしがみついていないで、聖霊が私たちの内に描いてくださるキリスト像を、そのまま受け入れ、そのとおりに従っていくことです。
 私たちの内に柔和な受難のしもべキリストのイメ−ジが豊かに形造られていく時に、私たちは柔和なこころの砕かれた主のしもべとして形造られていくのです。


                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)