柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の出番」 ヘブル人への手紙11章7節


 「ノアの箱舟」と聞けば、「創世記」に登場する人物で(6〜8章)、神が命じられたとおりに、山の中で大きな箱のような舟を作った人です。その時代は邪悪な時代で、地上に人の悪は増大し、人間が心で計ることは悪いことばかりでした(6章11〜12節)。どこか今日の地球社会を思わせる言葉ではないでしょうか。こうした罪に落ち込んでいた人間を救おうと、救出作戦を立てておられた神も遂に、大雨の後に大洪水を起こされて、全てを地の面から滅ぼそうと決心されました(6章5〜8節)。ただし、あわれみ深い神は、神の語られることを聴いて、その通りに従って箱舟に入る人々を救おうとされたのです。
 その時地上にただ一人、主の目の中に恵みを見出していたノアは、『・・・神とともに歩んだ』のでした(6章8〜9節)。そんなノアに神は目を留め、彼に連なる者、彼に従って箱舟に入る者を救うと定められました。『すべて主が命じられたようにした』(7章5節)のは、『信仰によって』でした(ヘブル11章7節)。ただ、その工事中にも、ノアは同時代の人々にも証しをし、警告をしましたが、それは嘲笑と迫害をもって報いられただけでした(Ⅰペテロ3章20節)。
 今日、「神などいない」と豪語したとしても、核の脅威・飢餓の増大・人間不信・愛の欠如といった中で言い切れるでしょうか。「神の救いはどこにあるのか」と発言していても、ヘドを吐きたくなるような道徳観・倫理観でしか生きられない人間の現実に対して、今こそ《神の出番》なのです。


Ⅰ.神の救いの計画

 神は目に見えないお方、いつも歴史の背後で全てを支配しておられます。その神の明確な出番が三回あります。
 第一幕は、『はじめに神は・・・』(創世記1章1節)との天地宇宙の創造の時でした。無から有を呼び出される神は、創造の冠として人間を創造され、神のいのちの息吹を入れられて、生きる者とされました。神のような知性、神のような感性、神のような意思の自由を持った、自由な人格として造られました。神と交わり、愛し合う世界を作り上げることをその使命とされました。しかし、その自由を曲げて用いた人間は、神を締め出し、自我を神とし、エゴと罪の道を歩み始めた時から、死と罪と苦悩と虚無、憎しみと争いが、宿命のように支配したのです。
 最後の第三幕は、その神が最後に、人間の歴史に顔を出される時、それは人類の歴史の大掃除の時、最後の審判の時です。神を侮ってはいけません(マタイ24章37〜39節)。備えは、如何に!
神の出番は、最も大切な第二幕がありました。主なる神は、全知全能の支配者、審判者であるとともに、やりきれないほどに私たち一人ひとりを愛してやまないお方です。罪と死の宿命の中にあえぐ私たちを、高見の見物をして、見て見ぬふりをして放っておくことのできないお方です。その具体的な現われが、イエス・キリスト受肉と十字架と復活でした。ここに、罪と死との唯一の解決の道が開かれたのです。『恐れかしこみつつ、その家族を救うため』でした(ヘブル11章7節)。


Ⅱ.「わたしの信仰」による成就

 ノアの正しさや完全さも、行為によるものではなく、信仰によるものでした。彼も罪人の一人ですが、『信仰によって』主のことばを受け、『信仰による義を受け継ぐ者』とされたのです(ヘブル11章7節)。
 一方、ノアを通しての神のみことばを受け入れず、それに従おうとしない人々は、言わば「信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じない」という自分勝手でした。
 ノアとその家族が、中で扉を押さえていたからでしょうか。いいえ、彼らにそんな力も資格もありません。『そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた』のです(創世記7章16節)。神が閉じた戸は、誰も開けることはできません。
 神は今も救いの戸を開いて、あなたを待っておられます。招いておられます。今、信じないということを悔い改めて、神に立ち返り、救われてください!
その時こそ、神の出番としての救いが、あなたのものになるのです。


                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)