柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「生かす言葉」  ヨハネの第1の手紙4章7-10節

 あるテレビ放映で、退職したご主人たちのアンヶ−トの集計が紹介されました。その中で、退職してからショックを受けた妻の言葉のベストテンというのがあり、「仕事どうするの?」「一日に三度、家で食事するの?」「散歩でもしてきたら!」「趣味でも持ったら!」「誰かと旅行でもしたら!」などとありました。もしこの逆で、こう言われたら、うれしいし心安らぐと思いました。「長い間ご苦労様、ゆっくり休養してね」「毎日、昼も一緒に食事できてうれしいわ」「一緒に散歩しましょうよ」「一緒に旅行に行きましょうよ」となったら、どんなに幸せなことでしょうか。何が、どこが違うのでしょう。後者の望ましい言葉には「共に」「互に」ということが共通しています。
 旧約聖書の「創世記」の初めに、神は人を男と女に造り、これを祝福したと述べられています。夫婦の絆は主なる神であり、この生きておられる神が祝福されるというのです。神の愛とは、「わたしと共に連帯してくださる」ことであり、「互に愛し合う関係をつくってくださる」ことです。

(1)共に
 誰かのために何かをしてあげようとするのは良いことなのですが、それが往々にして、「こちらはしてあげる人」、「相手はしてもらう人」という関係をつくりあげてしまい、知らず知らずのうちに、優越感と卑屈さのギャップができてしまったりという面が見られたりします。難しいことかもしれませんが、私たちは相手のためにというよりは、相手と共に、同じ土俵、同じ立場に立ち、少しでも相手の身になって一緒に悩んだり、苦しんだりすることができたら、どんなにいいだろうかと思わされています。
 さて、イエス・キリストは、私たち一人ひとりの弱さや苦しみを知ることのできる私たちと同じ人間になってくださり、私たちと一緒に歩んでくださって、新たに生きることができるようにしてくださいました(9節)。そして、最後にはまぎれもない罪とさえ連帯してくださったのです。それは私たちの罪の身代わりとなり、私たちを罪から救い、私たちが他者と連帯する者となるためであったのです(10節)。
 イエス・キリストは、ご自分を十字架につけた人々のために、次のように祈られるほどの愛を示されました。『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』(ルカ23章34節)と。今日、この愛の御声を聴くなら、この方に方向転換しましょう!

(2)互に
 度々自分のこととして語りますが、生ける真の神を知り、主イエスの愛を信じてから私は全く変えられました。私は神によって造られたかけがえのない価値ある存在なのだということ、その存在には、私でなければならない固有の意味と目的とがあるのだと知ったことは、私にとって大きなことでした。そして自分のことを価値ある存在として、ありのままの自分を受け入れることができるようになった時、他の人々をも大事な存在として受け入れることができるようになっている自分に気がついたのでした。
 しかしそれに加えて更にすばらしいことは、こんなに私自身を愛してくださっているように、あの人もこの人をも、主イエスは同じように愛していらっしゃるのだと分かったことです。そうしたら、み−んないい人のように見えてきたのが不思議です。そこで、『互に愛し合う』ことをさせていただける恵みに生かされるようになったのです。主イエス・キリストの愛は、私たち一人ひとりのひん曲がった人生観、人間観を根本的に変えてくださったのです。
 主イエス・キリストの私たちを生かす言葉は、それによって生かされた者が他者をも生かす言葉となって、日々の生活と生涯を潤すものとなります。星野富弘さんが、「誰にでも、やさしい言葉が、かけられそうな気がする。沈丁花の香り、ただよってくる朝」との詩に、キリストによって変えられた者の生かす言葉があります。

             (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)