柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

2007-01-01から1年間の記事一覧

「聖書と神の力」マルコによる福音書12章18-27節

主イエスは受難を前にした火曜日に、エルサレムにおいて宗教指導者たちと論争されましたが、そうした中でも主は絶えず永遠の真理に目を向け、その意味に思いをはせ、一向にみことばを聴いて従おうとしない彼らの姿も明らかにされています。 本箇所の『非常な…

「聖霊に支配される喜び」 使徒行伝8章9-25節

使徒行伝中に「聖霊が下った」という表現は、一回限り三分割されて起こっています(1章8節、8章16節、10章44節、11章15節)。しかし、「聖霊に満たされる」とは、随所に、また同一人物にも繰り返された経験となっています(2章4節、4章8節、6章5…

「子供に与える最高のもの」コリント人への第1の手紙13章13節

(夕礼拝) 「子供をダメにした親たち」と題する本がありますが、精神カウンセラ―の深沢道子さんが書かれた、たいへん示唆に富んだ報告です。そこには、米国のシカゴにある精神クリニックで、三人の精神科医と共に扱った、いわゆる精神的にダウンしてしまっ…

「いかなる時も賛美」 詩篇8篇

この詩篇は、天地創造に思いをはせて創造主をたたえている「賛美のうた」です。特に、神の創造における人間を省みて、あまりにも小さい存在に心を留められる偉大な神の知恵を賛美しています。1.幼子のように純粋に 2節 まず、賛美をささげるお方への「呼…

「仕えることの喜び」マルコによる福音書12章13-17節

主の恵みとして、二つのことが私を捉えて離れません。『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように』(詩篇51篇12節、新改訳聖書)と告白したダビデは、『その時代の人々に神のみ旨に従って仕えた』(使徒行伝13章36節)…

「喜びの拡大を」  使徒行伝8章1-8節

『大変なよろこびかたであった』(8節)とありますが、教会誕生後の初代教会のここに至るまでは、決して平坦な歩みではありませんでした。キリストの十字架と復活が宣証された結果、福音のみわざがなされました。それによって、批判・酷評・告訴を受けた教…

「実のある人生を」エゼキエル書47章12節、詩篇1篇3節

聖書は、幸いな人のことを『木』にとえています。その木には『水』が必要です。当たり前のことですが、しかし、このことを忘れると実がならないどころか、葉を枯らしてしまいます。 「20世紀は石油が問題で、21世紀は水が問題になる」と識者は指摘します…

「人生にバイパスはない」ヨハネによる福音書14章6節

(夕礼拝での説教) 世の中にはバイパスがたくさんあります。細くて険しい道しかなかった昔から、抜け道、近道、たくさんありました。今やバイパスの時代です。広くて真っ直ぐで、早く行くことができるバイパスが至る所に作られています。心臓冠状動脈バイパス…

「復活の主を見る」 使徒行伝7章54-60節

私たちの主イエス・キリストは、死からよみがえり、今も生きておられるお方です。そして、『生ける者と死ねる者とを審きたまわん』との告白のとおり、人は皆よみがえり、主なる神の前に立たなければなりません。そのときのためにも、そのときのためにこそ、…

「キリストの権威」マルコによる福音書11章27節-12章12節

「権威」との言葉は煙たがられ、個人の自由と権利を侵す敵と見なされがちです。しかし、本来「権威」というのは自発的な同意や服従を促す力や関係のことであり、相手の同意に関係なく脅しや罰則などにより無理やり服従させる「権力」とは別物と言えます。権…

「王がその席につかれると」雅歌1章12節、マルコによる福音書14章3-9

教会のⅤⅠP(最重要な人の)席は、どこでしょうか。それは、一人ひとりが座っている席です。『わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節、新改訳聖書)とあるとおりです。 「雅歌」の内容は、直接的には男女の愛・夫…

「人生の交差点」 ルカによる福音書7章11-17節

皆さんは「教会」というと、何を連想されるでしょうか。よく、「笑点」という番組で「○○とかけて△△ととく」「そのこころは……」という質問がなされます。ここで、私は「教会とかけて交差点ととく」としたいのです。そして、その解答がこの箇所に述べられてい…

「聖霊に満たされて」  使徒行伝6章8-15節

選ばれた教会の執事の一人でその筆頭格であったステパノは、日々の細やかな配慮の奉仕にも、キリストが神であられることの印と証のわざにも忠実でした(8節)。使徒だけでなく、信徒を通しても伝道と力あるわざがなされたのです。それは、聖霊に満たされ続…

「祈りの力」  マルコによる福音書11章20-26節

どこまでも神は絶対的なお方ですが、このお方を『・・・父よ・・・』(マタイ6章9節、エペソ3章15節)とお呼び申し上げて、親しい交わりをもたせていただき、祈りをささげさせていただけることは幸いです。 さて、主イエスがいちじくの木をのろった言葉…

「魂を生き返らせてくださる神」ペテロの第一の手紙2章22-25節、詩篇

近年、日本社会は安全神話が崩壊したと言われています。安全だと思っていた大地が、防衛体制が、社会機構が、教育の現場が、家庭が崩れかけています。 そして、安全だと思っていた宗教も危ない、怖いといった心境を一般に与えています。 こうした様々な安全…

「ギデオンと300人―その後―」士師記7章15〜23節

前回の箇所においては、士師記7章前半を中心に見ました。ギデオンと300人のイスラエルの民が強くされて、ミデアン人に勝利することができたのは、 ①彼らの中から恐れの心が取り除かれたこと(3)であり、 ②敵前意識が植え付けられたことによる(4〜)こと…

「神は人を用いられる」  使徒行伝6章1-7節

ペンテコステ以降、主の弟子によって伝道の働きは大胆に進められ、人々はキリストが弟子たちと共におられることを認めないわけにはいきませんでした。しかしそれであればあるほど迫害も熾烈を極めました。このような事態の中にあって、救われる者が加えられ…

「真実であれ」マルコによる福音書11章12-19節

本日取り上げた箇所は、受難の道を歩まれる主イエスが、エルサレム入城の翌日の、厳しいとも思える「実のないいちじくへの呪い」、荒々しい「宮きよめ」の出来事です。ここには、失望と怒りをあらわにされている主イエスのお姿があります。Ⅰ.真実を見抜かれ…

「見よ、新しくなった」コリント人への第Ⅱの手紙5章14-21節

『古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』(17節)。 ここで言う「古いもの」とは何なのでしょうか、何が「過ぎ去った」のでしょうか、「新しくなった」とは何なのでしょうか。時が流れたら、新しくなるのでしょうか。未だに古いものを…

「ギデオンと三百人」 士師記7章1〜8節

年が変わって三週間余りがたちました。私たち日本人は、新年のような「節目」を大切にする国民であるといわれます。ですからよく年の初めには様々な目標を立てます。それは信仰生活にもいえることであろうと思います。 そのような中で、よく「今年は勝利した…

「来なさい」 マタイによる福音書11章28-30節

多くの宗教は、「行って---しなさい」と言いますが、聖書は「来なさい」と語っています。確かに、イエス・キリストの中心的なメッセ−ジとして知られている本日の聖書箇所にあるように、主イエス様は、『わたしのもとにきなさい』、『わたしに学びなさい』と…

「成熟した教会」 使徒行伝20章17〜21節

本箇所においてパウロは、キリスト者とその教会に向けての「決別説教」を語る中から、過去を振り返って「悔いのない生涯」を送ってきたことの総決算をしています。ズバリ、『主に仕える』という彼の伝道姿勢を語っています。そのことは、今日の教会と信徒一…