柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「仕えることの喜び」マルコによる福音書12章13-17節

 主の恵みとして、二つのことが私を捉えて離れません。『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように』(詩篇51篇12節、新改訳聖書)と告白したダビデは、『その時代の人々に神のみ旨に従って仕えた』(使徒行伝13章36節)のでした。
 本箇所には、神と人とに仕えることの喜びを主イエスが証しておられます。

1.神のものとされ、神に仕える
 あらゆる手段を用いて主イエスを捕らえ殺そうとするユダヤの指導者たちです。今回は、巧妙で陰険な「税金問題」でわなを仕掛け、その言葉尻を捕らえて訴えようとしてきました。主イエスをほめそやして、建前からでない真実を、人の顔色を見ないでズバリ言わせようとする魂胆です。それは、カイザルに税を納めるべきだと肯定的に答えたら、国民感情の反発を受け、カイザルに納めるべきでないと答えれば、反逆罪としてロ−マ政府に訴えられるということでした(13〜14節)。どちらかと言えば、主イエスから納税拒否の答えを引き出し、偽証することにより、主イエスを十字架に追いやろうとするものでした。その偽証を見抜いておられた主イエスは、刻印されている皇帝の肖像と、その皇帝名が神と銘記されていたデナリ銀貨を持ってこさせ、彼らの口から『カイザルです』と証言させなさったのです(15〜16節)。
 「あなたがたは、ロ−マの支配の中で、そのお金を使って生きています。その『カイザルのものはカイザルに・・・返しなさい』」と主イエスが言われたことに、彼らは虚を突かれました。ただ、「納める」のでもなく、まして「取られる」のでもなく、それを「返す」ように勧められました。続いて、『神のものは神に返しなさい』と語られています。その背景には、本来人は『神のかたちに』創造され、神のかたちを帯びているのです(創世記1章27節)。デナリ銀貨にカイザルの肖像が刻まれているように、一人ひとりは、神の肖像が刻印されているのです。そうであるから、自分の存在は、自分のものではなく、神のものであることをわきまえて、神にお返しするのです。
 どれがカイザルのもので、どれが神のものか、どこまでがカイザルのもので、どこからが神のむものか区分し、判断することはできません。むしろ、私たちの全てが、全領域が神のものです。全時間・全生涯が、健やかな時も病める時も、順境の時も逆境の時も、生ける時も死ぬる時も、神のものであることの信仰の自覚をもって、神と人とに仕えるのです。

2.健やかに生き、人に仕える
 神を神として崇め、神のものとされているところでこそ、人は健やかに生きることができます。
 と言うのは、本来神のものであったにもかかわらず、人は神抜きに背を向け、神のことばに背いて生きた時から、その健やかさを失いました。その回復のために、人は飽くなき探求をしてきました。しかし、人の側にそれを見出すことが出来ない現実を神はあわれんで、独り子イエス・キリストを遣わし、十字架と復活による救いのみわざを成し遂げてくださったのでした(?コリント5章17節)。はからずも『神の道』と言ったことに対して(14節)、その道こそ十字架と復活の道であることを明らかにされたのです。それによってこそ、自分のものだとしがみついていることから自由にされて、神のものとされ、神に仕え、人に仕えることを喜ぶ歩みの道が開かれるのです。

                   (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)