柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の栄光と愛」 ヨハネ13章31-35節

このところにユダの名前が出てきます。彼はイエス様を裏切りました。実はイエス様は彼が裏切ることを知っておられました。(21節)しかし他の弟子たちにはユダであることを明言されなかったのです。それには理由があったのです。


1,神の栄光を現すため

ここに栄光という言葉が出てきます。(31、32節)栄光とは輝きとか誉れ、非常にすばらしいものです。しかしここでイエス様が言われた栄光とは十字架のことであったのです。今でこそネックレスで女性の胸元を飾るものとなっていますが、十字架とは死刑の道具でした。犯罪を犯した中でも人々に重大な影響を与えるほどの犯罪を犯した囚人に、しかも身分の低い奴隷のような人にしか課せられないような恐ろしい刑罰でした。生きた生身の人間をそのまま十字架に釘付けにし、死ぬまで十字架の上にさらすのですから、これほど恐ろしくみにくい刑罰は他にはありません。しかし、イエス様はこれが栄光であると言われたのです。
人間関係でつまずきになるものはいろいろあると思いますが、相手に期待していたのが期待はずれに終わってしまうことがつまずきになってしまうのではないでしょうか。イスカリオテのユダはイエス様を信頼していました。この世の救い主として期待をしていたようです。それは他のユダヤ人も同じであったと思います。しかし、イエス様は彼が期待したようにはこの世を変革されなかったのです。ユダにとっては期待はずれでした。彼はそのイエス様につまずき心は離れ、ついには敵対していた祭司長や律法学者に銀貨30枚で裏切る結果となったのです。
そのことはイエス様は知っておられました。しかし、ひと言も口には出されませんでした。おそらく態度にも出なかったでしょう。それは弟子たちにはいったいだれが裏切るのか分からなかったことからも解ります。しかし結果的には、イスカリオテのユダだけでなくすべての弟子がイエス・キリストを裏切り見捨てて逃げてしまったのです。
31,32節に栄光と繰り返し出てきます。この栄光には二つの面があります。一つは人の子が苦難として受ける栄光です。キリストの栄光は十字架の死です。それはこの世で一番大きな苦しみと恥です。それをキリストが受けられて、神の愛の栄光を表されたのです。そしてもう一つは救いの栄光です。キリストの十字架の死によって、神の裁きが十字架の上でなされ、私たちの払うべきいのちの代価が十字架の上で支払われ、私たちの罪がキリストのいのちによって支払われるのです。それにより私たちは赦され神に受け入れられる者となれるのです。ですからキリストの栄光は私たちの救いです。それ故私たちはキリストをあがめ、誉め讃えるのです。


2,キリストの愛の実現

エス様は弟子たちに新しい戒めを与えると言われました。(34節)互いに愛し合いなさいと言うことです。新しい戒めであるなら、古い戒めがあります。それは旧約聖書にある、神を愛し、隣人を愛する律法です。一人の律法学者がイエス様に隣人を愛することを問われ、尋ねた話があります。(ルカ10:25〜)人を愛することを表すのは実際難しいことです。むしろ自分がなかなか人を愛せないことが分かります。自分の気に入らないことをする人は赦せませんし、愛することができないのです。
エス様の弟子たちもイエス様と共にいながら、彼らもまた互いに愛せなかったのです。彼らは最後まで自分たちの中でだれが一番偉いのか競い合っていたのです。
その彼らも変わりました。イエス様が十字架に付けられ死なれたことを通して彼らは変わったのです。自分が生かされているのは、神の愛であり、十字架で赦されることが彼らにはっきりと分かったのです。十字架を通して彼らははっきりとイエス様が赦して下さったことを信じることができました。それだけではありません。
その後、イエス様は彼らに私は別に助け主を送ると約束され、ペンテコステの日に聖霊は彼らの上に下られたのです。聖霊は彼らの内に働かれ、イエス様の約束を思い起こさせ、彼らを奮起されました。彼らは変わりました。十字架から逃げるものであったのが、十字架をいとわない、どんなに苦しくても弱音を吐かない。ムチでたたかれ迫害を受けても、自分はそのようにされるものとなったと喜ぶ人に変わったのです。それは聖霊のなされる業です。
私たちも自分の力や努力では変わることはできません。しかし、神は栄光を私たちの内にも現されます。それは十字架の栄光です。心の内に主の十字架を拝し、栄光にあずかるなら私たちは愛することができるようになります。聖霊が助けて下さり愛するものへと変えて下さるのです。
私たちの心の内に十字架の栄光を拝させていただき、そしてイエス様が約束されたように、主が愛して下さったように私たちも互いに相手を愛するものとさせていただきましょう。


                   (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)