柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストにとどまる」 ヨハネ15章3-8節

私たちは自分の人生が豊かになるように願います。しかし本当の豊かさは物質的に恵まれていることだけでしょうか。さらに大切なものがあると思います。イエス様は私たちが真に豊かなものとなるようにぶどうの木のたとえをもって語られました。


1,神の御ことばによって聖められる

3節をみますと「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と言われました。私たちが本当に豊かになるためには聖さが必要です。
エス様はここにぶどうの木の話をされました。ぶどうの木は一つは、神が選ばれたイスラエルの人たちを意味します。旧約聖書のなかでも、ぶどうの木が出てきますがイスラエルの民をさしています。そのイスラエルの民は選ばれたにもかかわらず、神様に対して不従順でした。エジプトから助け出されてもモーセがいないときに金の子牛の像を作って拝み、ソロモン王以降の王国も偶像礼拝をし堕落して滅びに向かった歴史があるのです。
ですから、神様は物質的に豊になることや力あるものとなることを願っておられるのではなくまず、神に対して忠実であり従順であることを願っておられるのです。私たちが無から有をつくり出したのは何一つありません。すべてはすでに有るものから形を変えたり、加工しているだけに過ぎないのです。無から有を造られるのは神様だけです。
その全能の神は私たちをもきよくすることができるのです。私たちは自分で自分をきよめることはできません。しかし神にはできるのです。イエス様は「わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよい」と言われました。神がそう言われればそのようになるのです。私たちは神の御ことばを信じるのです。それが信仰です。


2,キリストにとどまる

実を豊かに結ぶためには、剪定ということがあります。それは要らない部分は刈り取るということです。実を結ばない枝は必要ありません。私たちの生活の部分でも必要のないことは取り去られます。陸上競技のランナーは余分なものを身につけません。それは早くはしれないからです。勝利をめざす人は余分なものは身につけません。私たちも神に祝される信仰の道を進むならば聖書にあるように「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)といわれているように信仰の馳せ場を走ることです。
そして私たちが豊かに実を結ぶ人生を得るためにはキリストにつながることです。それは4節5節で「とどまりなさい」とあります。キリストにつながることです。ぶどうは枝だけで実を結ぶことができません。かならず幹につながり養分を吸収してそれが枝に実となって結ばれるのです。そのためにつながらなければ実を結べないのです。
私たちもそれと同じようにキリストにつながらなければ、ガラテヤ5:22、23にある「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和」の実を結ぶことはできないでしょう。とどまると訳されているこの言葉は、つながる、住む、内住すると言う意味もあります。それはまた私たちがキリストの内に生き、キリストが私たちの内に生きて下さる、住んで下さるキリストが私の心におられるという意味があるのです。
教会では聖餐式がありますが、聖餐式は私たちがキリストの血と肉によって結び合わされ、十字架によってすべての罪が赦され、キリストの内に私たちが共に生きキリストが私の内に生きておられることを意味するものです。
ある人が広大な原野を開墾して柿の木畑を作りました。何年もかかって丹精込めてやっと実を結ぶまでに成長させました。ところが一口食べたとたん驚きました。それは渋柿だったのです。残念なことに全部の木は渋柿でした。ついには土地を手放すことになりました。ところがその柿の木畑を買う人が現れたのです。それは多額の費用でした。そして何と買った人は柿の木を一本残らず切っていったのです。丸坊主になりました。そして木の幹に接ぎ木をしたのです。そして何年か経ってその畑は甘い実の成る柿の木畑となりました。
私たちも、渋い実しかできなかったようなものです。しかしキリストに接ぎ木されるなら、キリスト御自身が御霊の実を実らせて下さるのです。キリストにとどまりましょう。


             (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)