柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「真の羊飼い」  ヨハネ10章7-18節

聖書はひと言で言うなら「キリストのことについて書いてある本である、キリストを証しするものである」と言えると思います。

このところでもイエス・キリストはご自分のことを証しされました。


1,羊の門

この中で繰り返し使われている言葉があります。それは「わたしは…です」という言葉です。それは単純で簡単な言葉ですが、聖書においては特別な意味があります。旧約聖書モーセシナイ半島の荒野で燃える柴を見つけたとき、真の神様に会いました。その時彼は神様に何という名前ですかと尋ねたとき、神様は「私はあってあるものである」と答えられたのです。その「あってあるもの」とは、ここで使われている「わたしは…です」という言葉なのです。難しい言葉では「メシア的自己証言」ともいわれる言葉です。それは真の神を表す言葉なのです。 そして、イエス様は「わたしは門です」と言われました。イスラエルでは羊を飼うとき放牧し、夜は囲いの中に入れて、羊飼いは門の所で番をしました。羊は門番の羊飼いに守られ安心して休むことができるのです。
羊が囲いに入るときは必ず門を通らなければなりません。そこからしか囲いの中に入ることはできないのです。それはまた私たちにとって天国に入ることを意味しています。先週も話しましたが、ヨハネの14章でイエス様は天国に行かれることを話されました。弟子たちは理解できませんでした。トマスもはっきりと「分かりません」と言ったのです。その時にイエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われたのです。
エス様こそ救いの門です。それ以外に、イエス様以外に天国に入れる方法は他にないのです。


2,良い羊飼い

エス様はまた「わたしは良い牧者です」と言われました。その当時、雇われ羊飼いがいたようです。いい加減にサボって羊の世話をしない、牧草を食べさせるために外に出してもいい加減にして、迷い出た羊がいても放っておいたり、野獣におそわれそうになっても助けない、そんな雇われ羊飼いがいたようです。さらには盗人がいて、羊を盗んだり殺したりするものもいたのです。
しかし、イエス様はそうではありません。羊のことを気にかけ、「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とはっきりと言われているのです。事実そうです。イエス・キリストは私たちのために十字架で死なれました。それは、私たちの全ての「負いめ」を十字架で赦すためです。私たちの「負いめ」はどうすれば赦されるでしょうか。それは私たちの持っているものや、力ではその「負いめ」を解決することはできないのです。しかし、十字架には私たちを救う力があります。
エス様は「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と言われました。イエス様を信じると私たちの心は豊になり、イエス様が内に働かれて力を与え、救いの御業を成し遂げられるのです。
1937年12月中国で南京大虐殺のあったとき、金陵女学院というミッション系の学校がありました。そこにアメリカから来ていたヴォートリンという女性宣教師がいました。彼女はキャンパスに多くの中国人子女を避難させ、守ったのです。あるときは日本兵が来て中国人を差し出せと言ってもそれに応じず、殴られても動じることなく中国人子女を守りました。それは彼女の心の中にキリストが生きておられたのです。キリストの羊を愛する思いが彼女の心に働き、あの大虐殺の中でも命がけで中国人子女を守る行動に出たのです。


3,神との交わり

なぜ彼女は命がけの行動をとることができたのか。その秘密は14節にあります。「知る」という言葉です。それはただ単に、客観的に知識として知っている、また理論的に知っていると言うのとは異なります。それはむしろ人格的に、心情的に自分の相手として知ると言う意味があります。つまりは親子とか、家族とか、仲間、恋人そうした「お互いに相手を知る」といった大切な意味があるのです。父なる神はキリストを知られ、キリストも父なる神を知っておられるように、私たちを知り、そして私たちもキリストをそのように「知る」ことを願っておられるのです。
教会とはまさにキリストを知る所です。キリストが自分を命がけで愛し、守り、わたしのために命を捨てて下さる。これを知ることが救いなのです。
18節はそのことを意味しています。すなわちキリストが喜んで私たちのために十字架に掛かり、いのちを捨て私たちを愛し、死からよみがえって私たちを救い新しい復活のいのちを与えられたことです。
私たちはこのことを知り、そしてキリストの囲いの内に入れられて守られていることを感謝したいと思います。そしてキリストはなおもこの囲いに一人でも入ることを願っておられるのです。


                   (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)