柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「いのちのパン」ヨハネ6章31-35節

アンパンマンという子どものアニメがあります。心の温まる話です。それはフィクションですが、私たちを救って下さる方がおられます。それはイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちに永遠のいのちを与えて下さる救い主です。


1,荒野の奇跡

6章の始めには、パンの奇跡が記されています。ガリラヤ湖の岸辺で大勢の人たちを教えておられましたが日が暮れ、食べるものがなく弟子たちは困りました。しかし、イエス様は五つのパンと二匹の魚をもって、五千人以上の人たちを満たされたのです。
人々は、イエス様を求めました。なぜなら、空腹を満たしてくださることを求めていたのです。しかし、イエス様は、なくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさいと勧められました(27節)。
その昔、エジプトを脱出したイスラエルの民は荒野で空腹を覚えました。そして、不平や不満が彼らの口から出て来ました。そんな彼らを憐れまれて神様は天からマナを降らせたのです。それは不思議な食べ物でした。彼らはそれを食べて満腹になったのですが、さらに肉が食べたいと不満を言ったのです。人間の欲望はキリがありません。今の時代も同じではないでしょうか。物質的には満たされているけれども、心が満たされていない。まさに、砂漠のように渇いているのがこの世の姿ではないでしょうか。


2,いのちのパン

ここでイエス様は不思議なことを言われました。「神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与える」と言われたのです。世とは私たち一人一人のことです。私たち一人一人にいのちを与えるパンです。いのちを与えるとは、単に私たちの生命を維持するというだけのものではありません。たとえ生きていても、植物状態でいるだけでは本当に生きている喜びはあるのでしょうか。いのちを与えるとは、私たちが生き生きとして生きることであり、喜びと感謝に心が満たされることです。それはたとえベッドで寝たきりであっても、喜びと感謝に溢れて生きることができます。


3,キリストがいのちのパン

なんとイエス様は、自分が「いのちを与えるパン」であると言われました。肉体のいのちではなく、永遠のいのちを与えて下さるのです。それはもはや、魂が飢えることもなく渇くこともないいのちのパンです。
それを得るために私たちはどうすればよいのでしょうか。「わたしに来なさい」と言われています。キリストのもとに行くのです。そして、「わたしを信じなさい」と言われます。イエス・キリストを心に受け入れることです。たとえパンがあってもそれを見ているだけではお腹はふくれません。食べることです。いくらのどが渇いても、水を見ているだけではいやされません。飲むことです。ですから、私たちの魂が満たされることは、キリストを心に受け入れることです。それが、信じることです。
心の扉を開いて、キリストを受け入れるなら、入ってきてくださり食事を共にし、交わりをすると約束しておられます(黙示3:20)。それをしたのが、収税人ザアカイでした。彼はイエス様を迎え入れ、交わりを持ったときに人生が変わりました。喜びに溢れ、人を愛し、寛大な人に変わったのです(ルカ19:8,9)。キリストは私たちを変えます。私たちの心を満たしてくださいます。キリストが私たちのいのちのパンなのです。


        (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一) 


この手紙は、使徒パウロからその弟子であるテモテに書き送られた手紙です。第一の手紙にくらべてかなり個人的な勧めが記されています。しかし、その内容は現代に生きる私たちに対する神の励ましの言葉です。


1,福音を恥としない

この手紙を書いていたパウロは、ローマの獄中で書いたと言われています。その当時、皇帝ネロが支配していました。やがて、ローマの大火が起こりネロはクリスチャンのせいにして迫害しました。パウロもまたその迫害の中で殉教したと言われています。
彼は迫害を受け苦しめられてもひるみませんでした。なぜなら、彼の内には神の力があったからです。それは十字架の言葉です。十字架の言葉には力があります(?コリント1:18)。イエス・キリストは私たちのすべての罪を背負い、私たちを赦して下さいました。罪が赦されるほど大きな力はありません。神様はその人に福音を語る力を与えられます。
ですからパウロはテモテにここで勧めています。まず第一に、主を証しすることを恥としないことです。使徒の働きを見ると、弟子たちは喜んでイエス様を証ししました。もう二度とこの名を語ってはいけないと言われ鞭を打たれたにもかかわらず、彼らは喜んでイエス様の救いを話ししたのです。
そして第二のことはパウロが主の囚人であることを恥としないことです。それは具体的に助けるということです。彼は多くの人たちの励ましや、差し入れまた直接会って助けてくれる人たちがいました。それはまさに命がけのことでもありました。しかし、惜しみなく助け支えた人たちがあって彼は伝道を続けることができたのです。このテモテへの手紙も牢獄で受け取り、エペソにいるテモテに渡した人がいたのです(4:12)。


2,福音―救いの計画と恵み

パウロはかつて、キリスト教の迫害者でした。多くの人たちを苦しめました。死に追いやった人があったかもしれません。彼がクリスチャンになっても近づく人はいなかったのです。それだけ恐れられていた人です。なぜ彼は救われたのでしょうか。それは、神の恵みでした。恵みというのは、受ける資格がないのに与えられる、それが恵みです。彼は救われ大いに喜びました。その喜びが彼を動かし、彼は自ら進んでキリストを伝える人となったのです。その180度の人生の転換はだれも予期しませんでした。しかし、それは偶然のことではなく、神様は計画されておられたのです。
神様の計画は遠大なものです。私たちの想像をはるかに超えるものです。しかしまたそれは歴史的事実であり、現実のものです。パウロはそのことをエペソ人への手紙で書いていますが「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、」(エペソ1:4)福音のために「使徒、教師として」任命されたのです。
それは、テモテにおいても同じです。「苦しみを共にして欲しい」とパウロは懇願しましたが、テモテもまた投獄の経験を味わったのです(ヘブル13:23)しかし、彼はその困難をも「神の力」によって乗り越えることができました。彼には助け主聖霊が与えられていました。彼はかつて弱い人でしたが、御聖霊が彼の力となって困難を乗り越える人としたのです。


3,復活の福音

福音英語ではグッドニュースですが、それは何でしょうか。キリストがよみがえられたという知らせです。それが、全世界を駆け抜けたのです。しかも、2000年経った今も語られているのです。私たちが信じるのは、死からよみがえられたキリストです。人間が最も恐れるのは何でしょうか。それは死です。しかも、他人の死ではなく自分が死ぬことを最も恐れるのではないでしょうか。
死ぬべき私たちに、神様は喜びの知らせを与えられました。それは、神の御子キリストが死からよみがえられて、死ぬべき私たちも、キリストを信じるなら永遠の命が与えられ、この世ではなく、天国で永遠に生きるものとされるということです。それが福音です。この福音によって、神様は私たちに永遠を与えて下さったのです。
この世はやがて滅びます。また、もし私たちがこの世にしがみついて生きようとしても、この世もろともに滅びに行くのです。私たちは、この世から分かたれて、永遠の救い主キリストに繋がって生きなければなりません。今世界で多くの人がイエス・キリストを信じて救われています。中国でも東南アジアでもアフリカでもイエス・キリストを信じて救われているのです。私たちも、イエス・キリストを信じ、滅びない復活のいのちにあずからせていただきましょう。


      (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)