柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「聖霊に支配される喜び」 使徒行伝8章9-25節

 使徒行伝中に「聖霊が下った」という表現は、一回限り三分割されて起こっています(1章8節、8章16節、10章44節、11章15節)。しかし、「聖霊に満たされる」とは、随所に、また同一人物にも繰り返された経験となっています(2章4節、4章8節、6章5節、9章17節など)。こうした聖霊のみわざに対して、全く無頓着な人物が、魔術師「シモン」でした。一言で言えば、聖霊に全面的に支配される生涯に入ろうと望むのではなく、逆に自分が聖霊を自由に支配することのできる権威を求めようとする、『心が、神の前に正しくない』ということでした(21節)。
 では、聖霊を受けて、聖霊に満たされるとは、どういうことなのでしょうか。

(1)神の賜物であると知っている
 シモンは人々を驚かす魔術師として、久しくサマリャの町に君臨していました。しかしピリポが行う神の救いのわざは、シモンの魔術が子供だましに過ぎないことを暴露しました。その際、彼がピリポに対して怒りや憎しみを現すのではなく、彼自身も信じてバプテスマを受け、いつもピリポについて歩いたとは興味深いことです。サマリャに福音の展開がなされているとの良い知らせがエルサレムに知らされるや、使徒ペテロとヨハネが遣わされました。確かに、サマリャの人々が『神の言を受け入れた』背後には、罪の悔い改めとキリスト信仰に至らせる聖霊のみわざがありました。そして、使徒たちを通して『聖霊を受けた』という聖霊の支配の中に導かれた彼らは、ペンテコステの日の外的なしるしが起こったのでしょう。そのことが魅力的で、いなむしろ魔力的に見えたシモンは、そのようにできる権威を金で買おうとしたのです。当然のことながら、ペテロはシモンを叱責し、『この悪事』の悔い改めを迫りました。
 私たちに対する神の救いの事実は、全て神からの賜物です。イエス・キリストの十字架と復活から始まる救いの全容は、金はおろか人間のどのような代価をもってしても得られるようなものではありません。聖霊を受けることも、満たされることも、人間の努力や修養や、まして金の力などで得られるものではありません。シモンは、この信仰の本質に関して根本的な誤りがあったのです。
 賜物である聖霊に支配されているという所属意識が確かでありたいものです。

(2)神の栄光のために用いられることを知っている
 シモンの根底にあった動機は何だったのでしょう。自分を偉大な者だということを人に見せ付けるために得ようとしました(9節)。それは、彼自身が謙って、聖霊を受けるために祈ってもらおうとせずに、一足飛びに自分にその権威をと求めていることにも現れています(19節)。バプテスマを受けていたとはいえ、これは悪に染まった古い性質、その習慣に堅く縛られている状態であると指摘されています(23節)。
 神の賜物は、神の栄光のためにのみ用いるものです。決して自分を誇示して見せるためのものではありません。
 霊的とは聖霊的と言えます。それは、何か神秘的な何かを意味しているのでもなければ、単なる感情や気分の高まりなどの特別な力と混同しないようにすることが必要です。聖霊をわがものにしようとして力を得るのではなく、聖霊の支配に生きて栄光を主に帰する、そうした聖霊の導きに従うことを喜びとし、神と人との前で謙遜に正直に生きることです。

(3)神に従う信仰を持つ
 聖霊を受けて、満たされ続けるには、動機において純粋であり、謙遜さか゛求められます。また、『神がご自身に従う者に賜った聖霊』とありますように(5章32節)、主に従うことが問われ、また当然ながら信仰を必要とします。
 にもかかわらずシモンは、そういう手続きを一切抜きにして、金で全てを済まそうとしているのです。その悪事を指摘されて悔い改めへと導かれているにもかかわらず、「ただ何も起こらないように」という恐れからくる護身の懇願で終わっています(24節)。
 信仰の歩みや教会の歩みは、地道な一つ一つの積み重ねです。聖日礼拝や聖研祈祷会の基本集会を重んじること、日々のディボ―ションを欠かさない、普段の生活の中で主の証しがなされていくといったことを継続していくことは、聖霊の導きによる以外にはできません。こうした基本的なことをなおざりにして、その代わり人が驚くような何かを求めたり、またそうしたものを許容しているところに、シモニア的なものが生じやすいのです。
 聖霊こそがキリストを証し、キリストに栄光を帰すことをさせなさいます。キリストに喜ばれないものが私どもの生活にあるとき、それに気づかせてくださるのは聖霊です。キリストに従うことをさせてくださるのも聖霊です。私たちは、一人ひとりが聖霊に支配されることを喜び、聖霊に満たされることが大切なのです。

                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)