柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主を待ち望む信仰」1テサロニケ1章5−10節

ギリシアはかつてギリシア文明で栄えた国でした。そこにもまた福音は伝えられ、救われる人が起こされたのです。そして、教会も建てられました。ただし建物はなく、おそらく個人の家で礼拝が持たれていただろうと思います。
困難な中にも彼らには希望がありました。それは、イエス・キリストが再び来られるという再臨の希望です。私たちも、この世においては困難を覚えますが、私たちも同じように主イエス・キリストが来られて救われる望みがあります。


1,救いの導き

キリスト教の救いは、一言でいうなら永遠の命が与えられることです。それは、聖書の言葉に基づいています。たとえばヨハネ福音書3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあり、イエス・キリストを信じるなら永遠の命を持つと約束されているのです。
ですから、私たちは救われるためにまず、聖書の言葉を信じることです。その聖書の言葉を信じるのは自分の力や能力によるのではありません。その中に聖霊が働いて下さるのです。「力と聖霊と強い確信とによった」とあります(5)。聖霊使徒たち福音を語る者に働かれ、彼らは確信を持って御言葉を語り、聞く者も聖霊によって御言葉を理解し、聖霊によって確信することができるのです。神様は御言葉とともに働かれます。


2,信仰によって生きる

御言葉を確信すると新しい生き方が始まります。第一に、苦難の中でも、聖霊による喜びをもって生きることができるということです(6)。パウロとシルワノ(シラス)はピリピで伝道しました。ところが捕らえら、れむち打たれ牢獄に入れられました。しかし、その中で彼らは賛美歌を歌ったのです。平安があり喜びに満たされていました。それはまさに聖霊に満たされ、生きる喜びをその中でしっかりと感じていたからです。
ですから、初代の教会のクリスチャンたちは迫害されても平気でした。むしろ「キリストの名によって語ってはならない」と言われむち打たれても、「自分は愛する主イエスのために迫害されているんだ」と喜び、なおも福音を語り続けたのです。
それだけでなく、主イエスにならい愛の働きを行い、また使徒たちのように御言葉を話す人となったのです。なぜそのようにできたのか、彼らは9節で言われているように、目があっても見えず口があっても話せない偶像を捨てて、真の生ける神キリストに仕えるようになって生活が変わったのです。聖書に書かれてあるとおりに、神に愛されまた互いに愛し合い、御言葉を語る人々となったのです。8節を見ると“主のことばが、あなたがたから出て響き渡り、あらゆる所に伝わっている”とパウロは絶賛しました。響き渡るとはトランペットの音、雷の響くような音です。遠くにまで聞こえるほどに神のことばは伝えられて行ったのです。


3,主を待ち望む信仰

彼らの一番の期待はどこにあったでしょうか。それは、キリストの再臨です。キリストは再び来られる。それが彼らの希望でした。彼らはキリストがよみがえられたことを聞き、ただ聖霊の助けによって信仰の確信が与えられ、主イエスが十字架の上ですべての罪を赦し愛して下さり、復活の命をもって私たちを生かして下さる。その希望に生きていたのです。私たちも同じです。やがてこの世は裁かれます。今その前兆が表れています。神のこの世に対する裁きは間違いなく行われます。
しかし、神様はイエス・キリストを信じる者を救って下さいます。そして、私たちを迎えに再び来て下さるのです。私たちは、私たちを愛して下さるキリストを、テサロニケの聖徒たちとともに待ち望む者でありたいと思います。


           (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)