柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「聖書と神の力」マルコによる福音書12章18-27節

 主イエスは受難を前にした火曜日に、エルサレムにおいて宗教指導者たちと論争されましたが、そうした中でも主は絶えず永遠の真理に目を向け、その意味に思いをはせ、一向にみことばを聴いて従おうとしない彼らの姿も明らかにされています。
 本箇所の『非常な思い違いをしている』(24節、27節)とは、『大いに誤れり』(文語訳聖書)が本来的な意味であり、単なる錯覚とか責任を持たない勘違いの類ではありません。とんでもない所に迷い出てしまっている(マタイ18章12節)ということです。その理由は、『聖書も神の力も知らないから』でした。

(1)神の力を知らない  25節
 世俗主義者であり合理主義者であったサドカイ人は、「モ−セ五書」の律法に明記されていない限りは否定した人々です。とりわけ「復活」についてはモ−セ五書に教えがないので否定しました。そして、それをもって主イエスをおとしめようと、家系と財産を保存するための規定を用いて(申命記25章5〜10節)、極端に誇張した議論をしかけてきました(19〜23節)。事は、「復活が正しければ、明白な律法の条項、すなわち神のことばに矛盾するのではないか」との主張です。それに対して、主イエスは、あらゆる領域において神は生きて働いておられるという「神の力を知らない」から、聖書全体が語る教えに対して懐疑が生まれるのだと言われました(24節)。
 さて、『彼らは天にいる御使いのようなものである』と語られた背景には、十字架の身代わりの死と復活があり、そのゆえにこそ、その御力の中で生かされる者は(ルカ20章36節参照)、キリストと結びついた生き方をして、神の力を体験することを明らかにされました。
 サドカイ人のように、復活などありえないとまで主張しなくとも、自らが永遠をどこで、どのように過ごすか不明確であるということはないでしょうか。また、安易に「死んだら天国に行けます」とか「死んだら、再会できますね」と自己満足しているところはないでしょうか。確かな保証は、人間の愛の絆を越えた生ける神との絆、すなわち神であられるキリストとの愛の結びつきをいただいている所にある再会です。

(2)聖書を知らない  26〜27節
 次いで主イエスは『読んだことがないのか』と問いかけておられます。つまり、彼らは聖書は読んでいるが、聖書を知らないでいると指摘されたのです。指摘された聖書箇所は、『出エジプト3章6節』のモ−セ五書からでした。アブラハムやイサクやヤコブを引き合いに出して、「わたしは○○○の神であった」とは言われないで、「わたしは○○○の神である」、まさに『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である』と語られました。生きておられる神との信仰の交わりの中に入れられている者は、肉体の死では終わらないで、復活の恵みの中に生きるのです(マタイ22章31節参照)。
 主なる神はご自身の全存在をかけて、「わたしは○○○の神である」と、私たちに語りかけ臨んでくださいます。主イエスの十字架と復活に現れた神の力が「わたしの救い」という恵みとなり、希望となり、確信となるのです。
 主イエスは、いかなる時にも私たち一人ひとりと共にいたいという愛と願いをお持ちであることを理解していなかったり、あるいは捨て去ることのできない罪を抱えたままでいるとき、主イエスご自身及び語られるみことばと、私たち一人ひとりとの間に隔たりの壁が生まれます。今も、神のみことばの健全な知識に、神の力の個人的な信仰の応答の体験が加わるとき、私たちは思い違い、誤り、迷い出た所から救われるのです。

                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)