柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「慰めの福音」 イザヤ書40章1-11節

 ここまで(39章)、どちらかと言えば「神のさばき」を語ってきたイザヤが、こからは(40章)「神からの回復の約束、神の救いの恵み」が宣言されています。その冒頭が『慰めよ、わが民を慰めよ』とのメッセ−ジです。これは、イザヤからすれば約二百年後の預言ですが、その時神の民は虚無的になって、「神の救いを待望したが、もう限界だ、神を信頼できない」との不信仰の虜になるおそれがあったので、慰めのメッセ−ジを語ったのです。救いとは、救い主であられる神によって、慰められることです(.ルカ2章25節参照)。神の救いよりも大きな慰めはないのです。
 人は自らが神によって慰められるという経験を持たないままでは、他者に慰めを手渡すことはできないのです。


(1)贖罪者の慰め  2〜8節
 偶像崇拝による不信仰に陥ったゆえに、バビロン捕囚を経験する神の民ですが、なぜ偶像に満ちたバビロンで70年間の生活を余儀なくされたのでしょうか。捕囚という服役を通して、神の民は偶像を拝み続けることから解放される信仰を徹底されるためでした。神の審きは、救いの顔を持っていると言えます。
 『ねんごろに・・・語り』かけられるとは、心に語りかけておられるのです。
語りかけておられる内容は、「苦しみ悩みは終わった。その咎に対する犠牲はすでにささげられた。罪のために十分な審きを受けた後、十分なあわれみを受けた」との、神からの一方的な罪の赦しの宣言でした(2節)。そして、バビロンからの帰還者が悔い改めることに支障のないように道が開かれました(3〜5節)。その罪の赦しの救いの確かさは、永遠に滅びることのない神のみことばに根拠があります(6〜8節)。
 この神の慰めのメッセ−ジは、今日の私たち一人ひとりに対するものでもあります。『慰め(ナホ−ム)』とは、悲しいが慰められたとか、寂しいが慰められたという意味ではありません。本来この語には、「悲しむ」「悔いる」という意味合いがあり、最終的に「慰める」という内容を持っているのです。すなわち、自らは神に敵対する罪を持っていることを悲しみ、その罪を悔い改めて、神が与えて下さった救いを受け入れる時に与えられるのが慰めなのです。ここに、イエス・キリストの十字架による罪の贖いの招きがあります(マタイ5章4節を参照)。


(2)牧者の慰め  8〜11節
 神のみことばという種が、私たちの内にまかれているなら、地上の主にある生涯のみか、その地上の使命を終える時を迎えても、なお神は永遠のいのちをもって永遠に生きる者とされます。
 全能をもって支配される力ある主は(10節前)、牧者=羊飼いの柔和と優しさをもって、小羊にも乳を飲ませる親羊にも、みことばをもって養い、迷い出た時には抱いて集め、問題や課題を共に携えゆき、ご自身の面子にかけても救いの完成に導かれます(10節後〜11節)。神に捨てられたのではとの虚無に陥り、開き直っていた神の民にとって、これはどれほどの慰めに満ちた『よきおとずれ』の宣言でしょうか(9節)!
 今日の私たちにとっても、全能者であり、力あるキリストご自身が羊飼いであられるとは、大きな慰めであり、励ましです。しがみつくようにして、主なる神とみことばを信頼するのみです。

(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)