柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「成熟した教会」 使徒行伝20章17〜21節

 本箇所においてパウロは、キリスト者とその教会に向けての「決別説教」を語る中から、過去を振り返って「悔いのない生涯」を送ってきたことの総決算をしています。ズバリ、『主に仕える』という彼の伝道姿勢を語っています。そのことは、今日の教会と信徒一人ひとりの伝道姿勢でもあります。
 パウロのそうした姿勢の根底には、キリストご自身が私たちのために『仕える者の姿をとり』(ピリピ2章7節)、十字架の死を遂げて贖いを成就してくださったことがあります。

 それでは、どのように主に仕えるのでしょうか。


Ⅰ.謙遜をもって  『謙遜の限りをつくし』

 聖書に罪のリストが掲げられている箇所には、必ず『高慢』(マルコ7章22節、ロ―マ1章30節、Ⅱテモテ3章2節)があります。確かに、主なる神に仕える者がとかく陥りやすい、しかも一番大きな罪は、高慢です。信仰生活の中で、奉仕の中で何か問題が起こるとすれば、それはいつも高ぶりから生じています。「高ぶりは、欲望と同じくらい危険に満ちている」と言われる所以です(ジョン・ウェスレ―)。
 具体的に主なる神に対して謙遜であるとは、主の主権に対して、みことばと聖霊の導きに対して従順であるということです(22節)。そこには、自分の願い・計画が先行することはなく、聖霊の強制に服している信仰姿勢があります。また、人に対して謙遜であるとは、主ご自身からだけでなく、人からも教えられやすい魂であり、自分に(教会に)委ねられているものは、自分に帰することをしない霊性です。『みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである』(Ⅰペテロ5章5節)。
 今、現実に謙遜に生きている、それを意識して努めていたがゆえに『限りを尽くし』と語るのです。


Ⅱ.愛をもって  『涙を流し』

 「めったに泣かない人が自然なこととして聖い涙を流すのは、キリストにある者の真実さが現れている。しかしそれは喜びが伴うものである(24節)。悲しんでいても喜んでいるのである」(ジョン・ウェスレ―)と言われるように、神抜きに、キリストに背を向けて生きている滅びいく魂に対する涙であり、キリストによる救いの確かさのゆえの喜びです。
 パウロは、伝道の範囲と方法において(20、21、27、31節)、福音のためには何でもしました(Ⅰコリント9章22〜23節)。そして、キリストによってのみ救われるとの確信のもとに(21節)、キリストを証し、宣べ伝え続けました。
 自分さえ、自分の家族さえ救われればよい、それはあまりにも信仰者の自己中心ではないでしょうか。福音を伝道して、一人でも罪と死の縄目から解き放たれる救いに導かせていただくために、『何とかして』との愛の情熱を!


Ⅲ.忍耐をもって  『・・・わたしの身に及んだ数々の試練の中にあって』

 成熟には、忍耐を欠くことがてきません。『どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐を持たせて下さるように』(Ⅱテサロニケ3章5説)との祈りをささげざるを得ません。
 パウロの伝道姿勢に、その忍耐を見ます(22〜24節)。忍耐とは、そのもとに留まり続ける、重荷を投げ捨てないで負い続ける、との意味があります。主に仕える中に、魂に対する重荷の中に留まり、投げ捨てないで、それを忍耐しながら担いつつ成熟していくのです。
 救いは、キリストを受け入れた時だけの経験ではありません。キリストのうちに留まり続け、キリストに従い、キリストに仕え続けることです。「主を信じ信頼するが、主に信じ信頼してもらっているか」との問いかけに応答する、成熟した教会たれ!


                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)