終末における主イエス・キリストの再臨は、確実なことであると聖書は証言しています。それは、神の国が成就する喜びの時であり、同時に神の審判の時です(28〜30節)。『ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません・・・』(32節)。誰にも分からないから、主イエスが来られないのでは決してなく、いつ来られても不思議ではないのてす。
従って、日々に主の再臨に備えている生活が重大なことです。十字架の救いがあるから後は高をくくって生きるのではなく、主の再臨に備えて生きる日々の在り方を、『目をさましていなさい』(33、34、37節)と十字架に向かわれる主イエスご自身が語られたのです。
1.みことばに懸ける生活をする 28〜31節
主イエスは、ご自分がこれまで語ってこられたことが、どれほど確かなことであるかを、念を押すように語られました。『わたしのことばは決して滅びることがありません』(31節)。これの詳細な意味は、「わたしが語った全てのことばは過ぎ行くことがない」ということですから、みことばこそが私たちを絶えず生かし続けるものなのです。世の終わりの前兆が語られたことはもちろん、私たちの日々の生活の中で、みことばの真実さと、生きて働き語りかけてくれる現実を、生き生きと体験するのです。
自分の生き方が分からなくなる時、自分が孤独に思われる時、無駄な労苦の日々と思える時、自分自身を失う時、心身病む時、新しいことを始める時、日々の歩みを始める時、「私はキリストに結び合わされ、キリストと共に新しく生かされている」との告白である洗礼を受けているゆえに、キリストにしがみついて、そのみことばにしがみついて生きることが、目をさましていることなのです。
2.いつものように生活する 32〜37節
主イエスご自身は、終末の時、ご自身の再臨の時の日時を知ろうとすることに関心や興味をもっておられませんでした(32節)。むしろ知らないままで、知らないからこそ『気をつけ』『目をさまし、注意して』いることが大切であると語られました(33節)。
それを分かりやすくするために、また印象づけるために、「旅立った主人のしもべ」の譬えで語られました。主人が『不意に』帰ってくるということを強調し、『眠って』と油断することなく(36節)、『それぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ』られました。この詳細な意味は、各々にご自分の仕事を割り当てて権限を与えられ、それをしっかり果たすようにということです(34節)。主イエスが私たちを信任してくださっているのですから、委ねてくださった主イエスの務めに没頭することが、目をさましていることなのです。信仰者として、日常の職務などにたずさわり、礼拝はもちろん、祈り・信仰の交わり・伝道に没頭することが大切なのです。
私たち一人ひとりは、主イエスにどれほど愛されて、大切にされていることでしょうか。ならばこそ、主のみことばに懸け、主を愛して、主の志を自らの志とすることが、目をさましていることなのです。
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)