コリント人への手紙を学びはじめて、いま何を感じて居られるでしょうか。わたしの心を駆け巡っているみことばは、「キリストの十字架がむなしくならないために 1章17節」です。果たしてこの一点に思いを定めて生きてきただろうかと思い巡らしています。そして残り少ない人生を、ここに思いを定めて生きていかなければと思っています。
人間が愚かとする十字架の言は、救われる者にとっては、神の力です。救いについて多くの人があれこれ語りますが、人間の知恵は永遠の滅びの前には全く無力です。それを思うと「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い 25節」と実感します。
1.神の召し
聖書は、神による救いを「召し」と表現しています。ここに「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい 26節」と記されていますが、これはわたしの状態を語っているのではなく、神が召して下さったその事実を考えてみなさい、と言うことです。
神の救いは召しによるのです。わたしたちが希望したことでもなく、わたしたちの力に基づいたのでもなく、資格があったと言う事でもありません。
賢さも、力も、身分も、全く必要としないのがこの救いであり、これを神による「召し」と言っているのです。
2.召しの結果
ところで、召された者(救われた者)について「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 26節」と語ります。
これを聞いて、人をバカにした話だ、と感じる人もあるかもしれません。救われた者の中には、知恵のある者、権力のある者、身分の高い者も居るに違いないからです。しかし、だから救われたと言う人はひとりもいないのです。
だれでも自分の罪を自覚し、その罪から救われるためには、自分が愚かで、無力であることを悟らなければ救われることはありません。
ですからこれは、人をあれこれ評価し、選別する話ではなく、十字架の救いの前に、人間がいかに無力な者であるかを示しているのです。
それはまた「神の御前でだれをも誇らせないため 29節」であり、さらに「誇る者は主にあって誇る 31節」ためです。
パウロ自身は、当時の社会の中で、知恵のある者に属し、身分の高い者に属していたと言えます。しかし、自分が救われたのは、その知恵や身分によるのではなく、十字架の言、十字架の力によることを知ったのです。ですから、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません ガラテヤ6:14」と語るのです。
3.だれに向かって誇るのか
キリストを誇り、十字架を誇ると言いますが、一体だれに向かって誇るのでしょうか。誇りとは、人間の神に対する基本的態度であると言われます。ですから、「神のみまえで 29節」と記されています。
人はみな誇りを持って生きています。見えるものしか信じられないわたしたちは、神の前に誇ることを忘れ、人の前に、才能・容姿・身分などちっぽけなことを誇りとして生きています。これらは神の前に何の役にもたちません。
最後に必要なのは、神の前に立つために通用する誇りです。それは、わたしたちの知恵となり、義となり、聖めとなり、贖いとなってくださった主とその十字架以外にありません。今や、わたしたちは主の十字架によって神の前に立つことのできる者とされたのです。常に十字架を誇りとして歩みましょう。
(説教者:柏原教会協力牧師 岸本 望)