柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「隠された救いの知恵(13)」  第1コリント3:18-23

きょう学ぼうとしている聖書の箇所は、理解するのに困難な箇所の一つと言うことが出来るでしょう。

この手紙は、神の愚かさと人間の賢さとを、しばしば取り上げています。そして、人間の賢さによってではなく、神の愚かさ、すなわち十字架によって救われることを教えようとするのです。

先に『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。1:18』と記されていました。そして、『神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。1:25』とも記されています。


1.自分を欺くな

ここ3章でも、賢いとか愚かとか言っていますが、それは、普通の知恵や知識のことではありません。
それは、神の前に出て、自分の貧しさ、罪深さを知って、救われなければならないと気づいた、その知恵のことです。
そこで、パウロは『だれも自分を欺いてはいけません。もしあなた方の中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるために愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。18』と言うのです。
パウロが、“この世”と言うとき、それは人間が支配していると考える全てのものを指しています。それは一方に、神が支配される世界がある、と言うことを考えに入れた上での発言なのです。ですから、人はだれも、自らが知者であるなどと自分をごまかすことは許されないのです。『自分を欺いてはいけない』のです。


2.神の知恵

『なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かだからです。19』と記されています。
人間の知恵は、ある意味では、尊重されるべきであり、重んじるべきものですが、神の知恵には、到底及ばないものです。神は天地を創造され、これを支配しておられます。
それに対して人間は、その中に住む小さな存在、被造物に過ぎません。ですから神の知恵には及ばないのです。
人は、どこから来てどこに行くのか知らないのです。言い換えれば、生と死の意味を知らないのです。
生と死について分からない者が、それ以外のことについてよく知り得るわけがありません。しかし、ここで語っている、この世の知恵が神の前に愚かである、と言うことは、その程度のことを指しているのではありません。それはわたしたちの救いのことを言おうとしているのです。
すなわち『十字架のことばは、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です 1:18』と記されている通りです。
わたしたちが考えることは、ことごとく虚しいことなのです。それは生きるにも死ぬにも、最大の問題である罪から逃れることが出来ないからです。罪を追い払う知恵がないからです。
これに対して、神が与えて下さった知恵は何であったかといえば、御子が十字架にかかって、わたしたちの罪のために死ぬということでした。すなわち“十字架のことば”です。ここに罪を滅ぼす知恵、わたしたちの救いの知恵が隠されているのです。
しかし、これはそれほど簡単なことではなく、神が考え抜かれた、愛の極みです。人間の自己中心的な知恵とは違って、神が人間を愛して、その罪を救うためにとられた、最後の愛の御業です。
それに引き換え、人間の知恵は愚かなものです。ここに旧約聖書のことばを引用して、その愚かさを語ります。

 『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。ヨブ 5:13』

 『主は、知者の議論を無益だと知っておられる。詩篇 94:11』

 『ですから、だれも人間を誇ってはいけません。 21』といいます。


3.すべてはあなたがたのもの

最後に、再び分派の問題に触れます。互いに分かれて競い合っていることの愚かさを指摘します。なぜなら、知恵をもって救いを用意してくださった神によって、『すべては、あなたがたのもの 21』だからです。ここで“あなた方”と言うのは、教会を指しています。
神の救いのご計画は、わたしたちの個人的な救いの実現ではなく、救われた者を、神の宮、神の神殿とし、教会を完成することです。ですからわたしたちの信仰もまた、自己実現のためではなく、教会と言うキリストの体の一部となり、神の言と呼ばれる建物の内に組み込まれ、教会を完成するという目的の実現に貢献するのです。
教会の完成は、何のためにあるのかといえば、神ご自身のためです。ですから『あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。 23』と言うことになるのです。
自分が神のためにあるのだ、と言うことが分かれば、自分は何のために生き、何のために死ぬのかと言うことも分かってくるのです。
このように、自分が自分のものではなく、キリストのものだと知ることこそ、救いとなるのです。
ここでは、知恵のことを語りながら、実のところ、生きることについて語っているのです。わたしたちは、自分の知恵・知識を誇ること、自己主張することに生きる道を求めようとするのです。
しかし、本当の知恵は、神の前に自己放棄・自己否定することであり、そこに本当の生きる道があると知ることです。
人間の知恵を誇らず、神の前に愚かな者だと知る者こそが、本当の知恵を持つ者と言うことができるでしょう。
自分の救いを見出すことができないで、何が知恵と言えるでしょうか。イエスの十字架の内に、自らの救いを見出し信じることは、この世のどんな知恵にも勝るのです。
十字架を通して人は、はじめて生きることと死ぬことの意味を見出し得るのです。十字架こそ救いです。ここに<隠された救いの知恵>があります。

                   (説教者:柏原教会 協力牧師  岸本 望)