柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主の恵みの年を数えて」 詩篇90篇

詩篇は「祈りの書」であると言われます。事実、今日味わう90篇の表題は「神の人モーセの祈り」と書かれています。祈りとは霊的な呼吸です。私たちは意識しているといないとに関わらずに呼吸をします。呼吸がなければ生きていくことはできません。それと同様に、祈りとは形ではありません。目を閉じて、ひざまずいて、手を組まなければ祈りではないというようなことではありません。どこにいても祈りの心をもって生きています。


ですから祈りとは観念的、抽象的なものではありません。非常に具体的な、日常の事柄なのです。私たちの手が日々刻むこと、そこに祈りがあるといってもいいのです。本章は、そのような日々の手の中から出てきた祈りなのです(17)。


しかし、残念なことに、その手が刻むものはすばらしい働きばかりではありません。一種のむなしさを覚えること、あるいは秘め事や隠れた罪(8節・新共同訳)もあるのです。その罪や秘め事を主の赦しの光の中に置かれると言うのです。裁きと永遠の滅びに陥れる光ではなく、主の赦しの光の中に置かれるのです。主は救いの主です。恵みの主です。裁きのために私たちの罪を暴露されるような方ではないのです。私たちの罪を赦すために主の光の中に置いて下さるのです。感謝なことです。


この詩はよく葬儀の時に読まれる箇所です。現に、私たちの教団の「式文」の告別式の項目を見ると、聖書朗読の聖書箇所の中にこの詩を見ることができます。それは、この詩が「はかない」という印象を持っていることによるのかもしれません。しかし、この詩はそのはかなさを超えた詩でもあります。あるいは欧米ではこの詩は大晦日の時に読まれる詩でもあるといわれます。それは、その生涯、あるいはその年を振り返りつつ数えることに由来しているのかもしれません。その年、その人の生涯をどう数えるか。「はかない」で終わるとするならば非常に残念なことです。そのはかなさを超えて、主の恵みを数えることが私たちに求められることなのです。そこには「私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(17)という、私たちの日々の働きがあるのです。


                   (説教者:西大和キリスト教会牧師 宮澤 清志)