柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「信仰の力」 第1ペテロ2:18-25

6月第三の日曜日は父の日です。お父さんにプレゼントされた方もあるでしょう。喜ばれることをするのは、感謝なことです。

聖書に「横暴な主人に対しても従いなさい」とあります。ある方は「それは難しい、自分にはできない。」と言われました。おそらく、自分でそのように心がけても出来ないだろうと思います。しかし、自分で努力し、良いことをしようという必要はありません。そこに信仰の不思議さ、またすばらしさがあるのです。そして信仰にはたちを変える力があります。なにを私たちは信じることが出来るでしょうか。


1.神に喜ばれる事があると信じる。

神に喜ばれる事とは、何でしょうか。良いことをする、人を愛する。そういうことでしょうか。ここではそう言われていません。19節に「悲しみをこらえるなら」とあり、20節では「苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」とあります。悲しみをこらえる、そして忍耐することです。それを神様は喜んで下さるのです。そうイエス様の弟子のペテロは言いました。何も出来なくてもいいのです。ただ忍耐するだけでも神様は私たちを喜んで下さるのです。
ここに「しもべたちよ」とありますが、それは奴隷を意味しています。奴隷には、およそ人権はなく、過酷な労働を強いられていました。当時、奴隷たちの中にも、過酷な生活の中で、イエス・キリストを信じる人たちも起こされました。その人たちにペテロは、従いなさいと語っているのです。事実彼のことばを受け入れ、不当な扱いを受けても、主人に刃向かわない多くのキリストを信じた奴隷がいたのです。彼らはもはや、この世の喜びを求めていませんでした。むしろ神様が報いて下さることを期待していました。「苦しみを受けながらも、悲しみをこらえる」「善を行って苦しみを受け、耐え忍ぶ」それを神様は喜んで下さる。そこに希望を見いだしていたのです。


2.キリストの模範にならう。

イエス・キリストは私たちにこの世でどう生きるか、その見本を実際に人となって示して下さいました。神様はただ言われるだけではなく、そのことを現し示して下さる方です。22節にあるように、キリストは罪を犯したことがなく、何の偽りもなかった、23節に「キリストはののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず。」とあります。そのキリストが十字架に付けられ、殺されたのです。これほど理不尽なことはありません。しかし、イエス・キリストは自分を十字架に付けた人たちに「父よ彼らをお赦し下さい」と祈られました。その身をもって、敵を赦すことのすばらしさを現されたのです。どうして十字架の上で、赦すことが出来たのでしょうか。それは私たちは死んで終わり、この世の生活だけで終わりではないのです。キリストは死の中からよみがえられました。復活の命永遠のいのちがあるのです。「今苦しんでいても大丈夫だよ。悲しんでも大丈夫。死の後には復活の命、永遠のいのちが与えられるのだよ」と、イエス・キリストは約束されました。そして事実、墓の中から死の中からよみがえられたのです。キリストを信じるなら復活の命が与えられるのです。ですから、ローマ時代のクリスチャンは、武器を持って戦わないで、むしろ自分の命を与えることを選んだのです。


3.キリストの義に活かされることを信じる。

なぜキリストは十字架の上で死なれたのでしょうか。ご自分では全く罪を犯されませんでした。それは、私たちの罪のために死なれたのです。罪とは何でしょうか。すなわち「なぜ自分が苦しまないといけないのか。なぜ自分が悲しい目にあうのか」と、つぶやき、嘆きそして人を呪い、怒りが内側から湧きあがってくることです。それが罪です。
その罪を私たちから取り除くために、それらの罪を全部背負って死んで下さったのです。
私たちが、自分の罪を認め、イエス・キリストの十字架の死は私の代わりだったと信じるなら、私たちは永遠の滅びから、死から救われるのです。そして私たちがさらに、罪から離れて、義に生きるために「私たちのために」死んで下さったのです。 義とは正義の義、正しいと言う意味です。それは、キリストが身代わりとなって、全ての罪の負債を身に負って下さったのです。借金を全部肩代わりして下さったのです。十字架によって帳消しになりました。信じれば、全ては赦されます。そして私たちの魂も癒され、新しくなるのです。


                          (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)