柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神から頂いた人生」 第1コリント4章1-13節

コリント人への手紙を読むとき、常に心に留めるべきことは、これが教会に宛てて書かれたものであると言うことです。伝道者も信徒も、謙虚にこの手紙から学ばなければならないと心するのです。
この箇所は、一見、難しく理解しがたいところです。
ところで新共同訳には、小見出しが記されています。その小見出しによりますと、4章全体を「使徒の使命」としています。これによって理解が助けられます。すなわち、信徒は伝道者の立場を理解し、伝道者は自らの使命に立ち戻るために、このところは重要な箇所であると言うことができるでしょう。
この手紙は、「あなたがたの間に争いがあるそうで、1:11」と言うことばに端を発しています。その争いとは伝道者を取り巻く信徒の争いでした。そこで伝道者とはどのような存在なのかと言うことを語るのです。


1.あなたがたは王になっている

パウロは皮肉を込めて語ります。コリントの信徒に向って「あなたがたは、もう満ち足りています。…王さまになっています。8節」
福音によって救われると言うことをはき違えて、何か特別な存在になったかのように思い、信仰による謙遜など見られないのです。
神の国の王にでもなってしまったような生き方をしていると皮肉っているのです。「私たち抜きで(わたしたちをさしおいて 口語訳)8節」と言っているのは、パウロたち伝道者の語る福音を抜きにしているのではないか、救われた事実を忘れているのではないかと言うことです。
わたしたち信仰者は、神の意みによってこそ生きているのであって、神の恵みを喜び、そこに満足を見出すべきです。


2.伝道者の生活
一方、伝道者の生活はと言えば、それは神が望まれるように生きることです。
それを「死罪に決まった者のように  9節」と言います。すなわち最も惨めな者のようにと言うことです。さらに「行列のしんがりとして連れ出され9」と言いますが、口語訳では「最後に出場する者として」と訳しています。前者は、勝利の行進の最後に捕虜として連れ出されることであり、後者は、ローマの迫害時代に、競技場で獣と戦うために最後に引き出される者のことで、いずれもまことに惨めな姿です。
伝道者が見世物にされるのは、伝道者を見せることが目的ではなく、ちょうど王が自らの権威を誇示するために捕虜を見世物にするように、神を見せるため、神の威信を見せるためです。
神が、真に神であられることは、人間の知恵では分からないことです。ただ神がその恵みを表される以外にありません。そのために神の御子イエス・キリストが十字架にかけられてさらし者にされました。従って、伝道者をはじめとし、すべての救われた者の人生は、神の恵みをあかしするためにさらし者にされるのは当然のことなのです。


3.愚かさと賢さ

わたしたちが神の子とされるために、神の子イエス・キリストがさらし者になってくださったのですが、キリストの救いが実現するために、わたしたち信じる者もみなさらし者にされて当然なのですが、ここにパウロは皮肉を込めて語ります。「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。10節」と。
それは、パウロやアポロの苦労も知らず、神の救いのみ業における犠牲も忘れて、派閥争いをしている人々に対する厳しい批判なのです。
しかし、同時に、自分が愚かとなることによって人々が賢くなり、自分が弱い者となることによって人々が強い者と変えられ、自分が卑しめられることによって人々が尊ばれる、そのような立場に立たせられていることを神の恵みと感じているのも事実です。
「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。コロサイ1:24」と言って、宣教の苦労を光栄としたパウロの面目躍如としているところです。


4.伝道者の現実

パウロの時代の伝道者は、いわば伝道者の典型のようなもので、今目の教会のように、伝道者に対し、多くの配慮をするということはあまりなく、神にのみ依り頼むということでした。ですから彼の言うところは決して誇張ではなく、現実だったのです。「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物も無く、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。11節」と言います。
人間が、杜会的に何の地位もなく、何の保護もされないとすれば、まさにここに記されているとおりでしょう。
パウロは、神を冒涜する者として同胞ユダヤ人から迫害されました。彼らの信仰を正そうとしたのですが、理解されませんでした。ですから、ユダヤ人以外の人々にとってはなおさらのことで、邪魔者にされ、裸にされ、打たれることは毎目のことだったでしょう。そこで、子供のころに覚えた天幕作りをして自分の命を保ったのです。
彼の伝道者としての日々がどんなものであったかと言えば、「はずかしめられるときにも祝福し 12節」彼の本来の仕事は天幕を作ることではなく、福音を宣べ伝えることであり、それは人々を祝福することでした。
人を祝福すると言うことは、辱められながらすることではなく、人から尊ばれ豊かな境遇にある者のすることです。しかし、彼の場合はそうではなく、伝道者の生活そのものが辱められていたのです。一人前の人間、まともな立場にある者とは認めてくれない人々に対して、祝福を与 えるのが彼の役目でした。そのように、例え辱められても、すべての人を祝福することこそが、福音を伝える者の務めなのです。
「迫害されるときにも耐え忍び、12節」
迫害が目常のことであるなら、その迫害に耐えるのも目常のこととなり、罵られることも目常のことでした。人の生活を乱す者として事毎に罵られたことでしょう。そのような中で、激しい言葉を持って言い返すことは、彼の使命に反することです。罵られても、優しい言葉を返すことが、当然、伝道者であるパウロに要求されることでした。
「私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。13節」
それは、この世のちりのように、人間のくずのように扱われることでした。これは自らの悲壮さを強調しているのではなく、これがごく普通の生活だったのです。
このように伝道者の生活とは、自分を表さないで、神の栄光のために労苦する生涯でした。ですから教会にあって、やれパウロだ、やれアポロだともてはやすことは全く愚かなことであり、信徒が伝道者に対する態度ではないと言っているのです。
伝道者自身も、この世の評価を気にし、評判に振り回されるようであってはならないのです。ましてやそれを自ら求めるようであってはならないのです。
今目の教会が、伝道者に対する配慮を深めたこと自体はすばらしいことと言うべきであり、伝道者は大いに感謝するところですが、だからと言って教会におもねることは間違いです。一方、信徒の立場では、神の恵みに生かされていることを感謝して、謙遜に生きるべきなのです。満腹して王のようになった生活ではなく、いつも神のあわれみのゆえに生かされ、神から頂いた人生であることを感謝して生きるのです。


                   (説教者:柏原教会 協力牧師  岸本 望)