柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「宣教の愚かさ」 第一コリント1章18-25節

 キリスト教宣教の第1世紀においても、この21世紀においても、人々が十字架を愚かとすることに変わりはありません。パウロ自身、かつては十字架を愚かとしていました。しかし、今や十字架こそが神の力だと言います。それに対して、「知者はどこにいるか」と問います。

1.知者とは 学者とは
 ここで語られる「知者」とは、知識こそが人を幸福にするとか、救いとなると宣伝する人のことです。
「学者」とは、律法学者のことで、神についての知識を誇る者のことです。神についての知識を誇ってみても、十字架を他にしては、神を知っているなどとは言えないのです。パウロ自身、主イエスの十字架に直面して、はじめて神を知ったと言い得たのです。
 この世の言う知恵や知識は、時にまなこを明らかにしてくれます。しかし、神がご覧になればそれは愚かというほかありません。なぜならそれは魂の救いを与えることができないからです。

2.この世の知恵
 「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による」と記されています。人は、神を知ることができたのに、神を知るにいたらなかった、それは罪があるからだ、と聖書は語ります(ローマ1:18-20)。
 人は、自分の力で神に近付こうとして神の怒りにあいました。それがバベルの塔の出来事です(創世記11章)。そして今も人は同じ事を繰り返しているのです。その限りにおいては、人は神を知るには至らないのです。
 人間の知性や理性だけで神を知ることができないと言うことは、「神の知恵による」と記されています。それは、バベルの出来事以来、神が語り続けて居られることであり、まずそのことを知ることが、神を知ることの出発点でなければならないのです。

3.神を知る道
 神を知るには、自分の知恵、すなわち人間の理性だけではなく信仰が必要なのです。知性や理性ではなく信仰によって、すなわち十字架のイエスを救い主として信じることによって罪から救われ、こうして神を知ることとなるのです
 救いという前提なしに、人が神を知ることはありません。なぜなら、人が神を知ろうとしたのは救いを得たいと願ったからなのです。
 そしてその救いは、「宣教のことばの愚かさ」に基づきます。主イエスの十字架の事実を宣言することは、人間が知恵を尽くし探究することに比べればまことに愚かなことに見えます。ですから「宣教の愚かさ」と言うのです。
 「ユダヤ人はしるしを・・・、ギリシア人は知恵を・・・」と記されていますが、これは今も変わらない人間の姿そのものです。しるし、すなわち奇蹟を求める者と、理性を絶対とし、理性に合わないことは信じられないとする者たちです。
 しるしを求める者には十字架は神を冒涜するものとしか見えず、理性を絶対とする者には十字架は理屈に合わないとしてしりぞけられます。
 しかし、教会は、十字架に付けられたイエスこそ救いであると宣言し続けるのです。なぜならそれこそが信じる者に救いを得させる神の力だからです。そしてここに神の知恵があるのです。
 わたしたちはこの時代のただ中にあって「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」と、大胆に宣言するのです。神は、この宣教の愚かさをもって人を救うこととされたのです。

             (説教者:柏原教会協力牧師 岸本 望)