柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「ひとり子を与える愛」1ヨハネ4章9-10節

一昨年、「八重の桜」という大河ドラマが放映されました。主人公の夫、新島襄は幕末の頃日本を何とかしたいと思い、アメリカへ密航を企てました。その船の中で聖書を見つけ、「はじめに神は天と地を創造された」という聖書のことばから真の神を信じたと言われています。後彼は、日本に帰ってきて何と皇居の後ろにキリスト教主義の学校を建てました。

なぜそうしたのでしょうか。彼は全能の神を信じるとともに、「神は愛である」そのことをも信じたのです。そして、さまざまな苦難を経て、将来を担う青年たちのために身を献げました。その妻の八重も一緒に洗礼を受けて、青年たちの教育に携わるとともに、従軍看護婦としても、後活躍しました。彼らの行く手はさまざまな困難があったのですが神の愛によって守られ、力が与えられて素晴らしい働きがなされたのです。

私たちにも可能性があります。神の愛が私たちに与えられるなら、どんな困難も憂うことをせずに乗り越えていく力が神様から与えられます。そのしるしとして、神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされました。イエス・キリストにこそ、神の愛と命の力が現されているのです。


1,この世の様

私たちはこの世に生きています。その世にイエス・キリストは遣わされました。しかし、彼は受け入れられませんでした。それどころか最後には十字架にはりつけになったのです。
この世とは、まったく無情の世界です。また、はかないものです。平家物語の一節にも「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とありますが、それは実にはかない、空しいものであることを語っています。
はかないものであるとともに、憂い・心配が心にあると思います。思いがけない悲しいことも起こりますし、健康だと思っていたのが、いつの間にか身体がガンに冒されていてあと余命幾日もありませんと聞かされることが現実にあるのです。
私たちの心を、この世のはかなさ、また憂いや心配、嘆きなどが次々と起きてくるのです。しかし、問題は、外側のことではなく、私たちの内側、心に問題があると聖書は言っています。 10節に「私たちの罪のために」とありますが、その罪が問題なのです。罪とは何でしょうか。マルコ7:20〜23に「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」とあります。それが人を愚かなもの空しいものとするのです。


2,なだめの供え物としての御子

神が私たちを愛し、私たちの罪のために、(その罪を赦す)なだめの供え物として、御子を遣わされました。
私たちにとって何が大切でしょうか。命ほど大切なものはありません。命を失ってしまえば、何の得もないのです。私たちは罪を犯し、神に逆らい当然滅びに行くべきでした。ところが、神はあわれみ深い方であり、私たちに救いを与えて下さったのです。それが、十字架です。十字架の上に、イエス・キリストは私たちの罪を負い、身代わりとなって死んで下さいました。このイエス・キリストを信じるなら、私たちは罪が赦されるのです。永遠の滅びから救われるのです。
父なる神は、いかなる罪人をも愛されます。その証拠に、最も愛する御子イエス・キリストを十字架に捨てられたのです。何の価値もない罪人を捨てるのか。それとも愛するひとり子を捨てるのか。父なる神はひとり子を捨てて、罪人の人間を救われたのです。「ここに愛があるのです」
私たちが永遠の滅びから救われる唯一の道は、神の前に自分の罪を認め、キリストの十字架が私の罪の赦しであることを信じることです。


  (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)