2006-01-01から1年間の記事一覧
ペンテコステの時に注がれた聖霊が、教会のスタ―トから今日に至るまで、そして一人ひとりの信仰の最初の一歩から今に至るまで、その歩みを刻みこんでおられます。最初のペンテコステの出来事の後にただちに起こったことは、ペテロたちが福音を語り出したこと…
本日わたしたちが聴こうとしておりますみ言葉は、第一ヨハネ5章のみ言葉です。実は、本日はペンテコステを前にした大切な週ですので、ペンテコステにふさわしいみ言葉を、とも考えました。しかし、み言葉の思い巡らしの中で、ある意味でこの箇所はそれにふ…
柔和で心の優しいお方、決して忘れることはないと招かれる主イエスが、ここに至っては永遠の苦悩を語っておられます。しかし、ここで主イエスが語っておられる眼目は、神の恵みの支配に入り、神の恵みの支配に生きることが、人間の最大の価値であり、それを…
『彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ』(箴言31章25節)とは、わが子のために祈る母の姿があり、そこに母の愛があらわれています。 よく、人に頼まれたことを忘れないようにと、手のひらに書いて口に含むようなまねをしたり、実際に…
キリスト教会の起源は、ペンテコステの時であり、イースターから50日目のことです。その教会誕生の起源には、三つの要素がありました。神の遠大な救いの計画の中において「神の時」が定められ、「神の霊」に満たされて、「神のことば」を知らされた神の人…
今日の私たちの信仰の歩みにおいて、聖(きよ)さを包み込んでしまう「愛の広さ」が問われています。それは、どうした中に育まれるでしょうか。 Ⅰ.キリストの側に立っているなら 38〜40節 『わたしの名のゆえに受け入れる者は』(37節)とのイエスの言…
「主の臨在に生きる」ことは、モ−セだけでなく、神のものとされた聖徒たちの神に対する積極的な希求であり、人間の魂の最深の要求を満たすものです。そして、私たちの教団創立時から拠って立ってきたみことばであり、耳慣れ、熟知しているものです。しかも、…
主イエスの十字架を見上げ、復活を信じていくとき、聖霊は復活の命を私どもに働かせて、その新しい命をもって全存在に生きてくださることを経験していきます。 Ⅰ.主の平安と喜びに支配される 19〜20節 主イエスは死んで葬られ、墓は封印され、そこから…
私たちは、主イエスの十字架についてあれこれ議論したり、学ぶことに留まらないで、十字架を仰ぎ見つづける中から、十字架の主の愛に引き付けられていくのです。そうした中から、キリストの愛に包み込まれていく経験をさせていだけます。その愛とは。 Ⅰ.執…
使徒行伝は「祈りの行伝」であり、随所に「祈りに忙しい教会」の姿を発見します。今週の聖書箇所にも、主イエスが昇天された後、弟子たちがエルサレムに帰り,、『屋上の間』で『共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた』(14節)と証言されています。 こ…
聖書の中には多くの逆説的な生き方が語られています。その一つが、神の御前において仕える道です(9章35節、10章43〜45節)。この点において、キリスト者と教会は、その霊性が問われ続けています。 ここに、主イエス御自身が自らの十字架と復活の予告をされて…
イエス・キリストが向いてほしいと願っておられる方向と、私たちが向いている方向が逆になっていませんか。お互いの目は、どちらを向いて、何を見ていますか。 Ⅰ.過去が見える ―人間の罪深さ― 過去が私たちに見える、それは私たちが自分の過去をどう受けと…
「私は神の子です」。この言葉は、私たちの存在のアイデンティティーを指す言葉であり、私たちが正面から聴くべき言葉といってもいいかも知れません。 もちろん、この「神の子」という言葉は、「おとな」に対する「子ども」という意味ではありません。これは…
あらゆる時代のキリスト者たちと教会を目覚めさせ、鼓舞してきたのが「使徒行伝」です。その時の「教会はまだ若く、躍動していて、しみも汚れもない時でした」(フィリップス)。そこには、聖霊によって変えられ、聖霊に満たされた人々によって力強く前進する…
イエス・キリストによって救われた私たちを「追いかけてくる」ものがあることを聖書は記しています。 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと/恵みとが、私を追って来るでしょう」(6節、新改訳聖書)。 恵みが追いかけてくる。原語では執拗に追…
多くの人々との交わりを通して、人は肉体的・生物的ないのち以上の、人生的・実存的ないのちがあることに気づかされます。聖書も、肉体上の地上の一時的ないのち(プシュケ−)と、人間を人間たらしめている本質的な永遠にかかわるいのち(ゾ−エ−)とに区別して…
「ア−メン」との言葉には、本来「主を信じた」「主を信頼する」という意味があります。それは、自分の人生と将来を自分の願いにそって、また自分の力で操作するのではなく、神に決めていただこうと願って、思いきって神に信頼を置くことです。 今週の聖書個…
ステパノの殉教を見証することがパウロに及ぼした影響を考えるとき、そのパウロの死を見守ることによって、今度はテモテの信仰が堅くされることを願ったのでしょう、『急いで早くきてほしい』(9節、21節)とテモテに懇願しているパウロです。 信仰者にと…
この教会の祈りによって産み出された「西大和キリスト教会」の今年の中心聖句は、「わたしたちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父…
『あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている』とのみことばは、救い主イエス・キリストが十字架におかかりになる直前、弟子たちに対する最後の言葉として語られたのでした。 誰の言葉でも、その人の最…
聖書『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』(コリント人への第2の手紙5章17節) 時計の針はいつもと変わらず、同じ速度で時を刻んでいるのに過ぎないはずですが、…
「人は、願望の中に生きるのではなく、希望の中に生きる」と言われるが、キリスト者にとっては、究極の希望であるキリストに結び合わされて、過去は感謝、現在は平安、将来は信頼に生きるのである。 本日の聖書の箇所は、『わたしは』と、ローマの獄中の中で…
「人間とは、慰めを必要としている存在である」と表現した人がある。確かに、互いに慰め合い、励まし合って生きているのが人間である。神によって造られ、キリストの救いにあずかった私たちは、何よりも神の慰めをいただいて生かされているのである(Ⅱコリン…