使徒行伝は「祈りの行伝」であり、随所に「祈りに忙しい教会」の姿を発見します。今週の聖書箇所にも、主イエスが昇天された後、弟子たちがエルサレムに帰り,、『屋上の間』で『共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた』(14節)と証言されています。
これこそが、私たちが今も受け継いでいる祈りの姿勢です。
Ⅰ.信じ抜く祈り
本来『ガリラヤの人たち』と呼ばれていた弟子たちでしたが(11節)、『エルサレムに帰った』とあります(12節)。先に主イエスが約束され命じられたことを信じ祈って待ち望んでいたのでした(4〜5節)。『信仰がなくては、神に喜ばれることはない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである』(ヘブル11章6節)と、信仰によって祈る時、神がなされた約束は成就するのです。
さらに、『ひたすら祈りをしていた』と、祈りに打ち込んでいました。祈りこそが、突破口を開く鍵であることを弟子たちは知っていたのです。ただ、神の約束がなり、みこころが成就するように、その時を待っていたのです。それにしても、十日間も祈りつつ待つのは、信仰の試される期間でした。
祈る時間がないほど忙しいスケジュ―.ルにして、優先順位を忘れて結実を見ない教会となることがないように!
Ⅱ.一致して心注ぎ出す祈り
『心を合わせて』祈りに打ち込んでいます。そこには、三種類の人々がいます。『婦人たち』とは、主イエスの伝道旅行の初期から仕え(ルカ8章2〜3節)、さらに復活の朝真っ先に墓に赴き、ここに至っても祈りの群れに加わっていた、マグダラのマリヤたちです。さらに、『イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たち』で(マルコ6章3節)、主イエスの復活の後に信仰を持って、この祈り会の構成員となったようです。そして、11弟子たちで(13節)、主イエスの十字架と復活の出来事に際して、気まずい過去を引きずっていました。この十日間に、主イエスの言葉を思い起こし、その十字架と復活は自分たちにとって何を意味するのかを問い直し、自らを吟味し、悔い改め、互いに赦し合い、愛し合うという聖別の時となりました。
本来の一致とは、交わりと称してなされる話し合いといったことによってもたらされるものではありません。ただ、主イエス・キリストの恵みとあわれみによる正しい福音理解に基づいて、私たちの全てを受け止めていてくださる十字架のもとで、真実な悔いし砕かれた心を注ぎ出すところから生まれるものなのです。そうした姿勢は、『一同は・・・祈って・・・すべての人の心をご存じである主』とあるように(23〜24節)、心合わせて祈り、主の最善を信頼している中にも表れています。
このように、私たちが受け継いでいる祈りは、教会が形成されるうえで成しえる最大の備えなのです。今、私たちは、どういう祈りをささげているでしょうか。
(説教者:柏原教会牧師 川原崎 晃)