柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「真に偉大な者」 マルコによる福音書9章30〜37節

 聖書の中には多くの逆説的な生き方が語られています。その一つが、神の御前において仕える道です(9章35節、10章43〜45節)。この点において、キリスト者と教会は、その霊性が問われ続けています。

 ここに、主イエス御自身が自らの十字架と復活の予告をされていますが、それを理解できないでいる弟子たちの姿が描かれてます(30〜32節)。そして、『だれが一ばん偉いか』との議論に終始しています(34節)。そこで、主イエスが「真に偉大な者」とは何かを明らかにされたのです。


Ⅰ.仕える者  35節

 『だれが一ばん偉いか』と論じることが、どんなに愚かなことであるか分かっていた弟子たちですが、この競争心は自分で制御できない罪の遺産ともいうべきものでした(ルカ22章24〜30節参照)。今日私たちも、主イエスの愛と恵みによって救われているという原点を忘れて、自分の努力と信心また功績によって救われたかのように思い込んだり、主イエスと教会と他者の魂の救いのために労させていただくのも主の恵みによるにもかかわらず、自分自身が成していると錯覚していたり、あげくは他者を非難して、自分の偉大さを誇っているということがあるならば、誰が一番偉いのかと言っているのです。
 考えてみるなら、主イエスご自身が誰よりも仕えてくださり、全ての人の贖いのために十字架の死に至ってくださったのでした(ピリピ2章6~8節)。このように父なる神に仕え抜いてくださったがゆえに、私たちの救いがあり、神に生きる道が開かれたのです。
 イエス・キリストの恵みに整えられて、その恵みが豊かに溢れ出る中から、喜んで仕える神の御前の真実な姿が生まれます。


Ⅱ.謙遜な者  37節

 仕える者こそが偉大であるとの教えの後に、主イエスは更にその教えを印象づけるかのように、『ひとりの幼な子をとりあげて』、弟子たちに『幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる』謙遜な者こそが、真に偉大な者であることを明らかにされました。
 当時は、幼子と言えば、ものの数に入らない、無価値なものの代表のように考えられていました。考えてみるなら、主イエスご自身、幼子のような無きに等しい、悔いし砕かれた人々こそが、天国に最もふさわしい者として招かれました。私たちも、そのような者として受け入れていただき、その主イエスを喜んで受け入れる中から、神が愛される一人ひとりを受け入れる謙虚な者とされるのです。
 へりくだって仕える者とは、人に言われるまま、要求されるままに動き回るということではありません。ひとりの人がキリストに向けられ、キリストを知って出会い、キリストを信じ信頼して従うようになり、その愛に育まれていくように仕えることなのです。

                           (説教者:川原崎晃牧師)