柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「あなたの目の前には」ヨハネによる福音書18章37〜40節

 イエス・キリストが向いてほしいと願っておられる方向と、私たちが向いている方向が逆になっていませんか。お互いの目は、どちらを向いて、何を見ていますか。


Ⅰ.過去が見える  ―人間の罪深さ―

過去が私たちに見える、それは私たちが自分の過去をどう受けとめて、それを自分の将来の生き方にどう生かしていくか、という姿勢につながるのではないでしょうか。
 さて、イエス・キリストの十字架に出会った人物たちの中に、「人間の罪深さ」が様々な形で現れています。

イスカリオテのユダに見る、裏切る心です(1〜9節)。彼は、人のことはよく見えたが、自分が何者であるかが見えなくなっていました。彼にとっては、イエス様がご自分の命をささげて十字架につくことなど、到底考えられないことであり、承服できないことでした(12章1〜6節)。

② ペテロに見る、無力さです(15〜18節、25〜27節)。彼は、意図的に裏切ったのではありませんでした。自分の意志と決意はありましたが(13章37節)、自分の無力さを知らなかったのです。

③ イエス様を殺そうと策略を練り、訴え出てきた祭司長たちに対して、無罪のイエス様ではなくて、罪人バラバを釈放したのが総督ピラトでした。彼は、真実に目をつぶり、不正を受け入れてまで自己保身に妥協する弱さがありました(28〜40節)。

 『十字架につけよ』との叫びは(19章1〜6節)、救い主イエス・キリストを裏切り、否み、否定して死に追いやる罪深い人間の姿です。まさに、十字架の事実は、私たちの過去を明らかに見せてくれる唯一のところです。

 
Ⅱ.神の愛が見える ―キリストの十字架―

私たちは、もう罪の中にうずくまっている必要はありません。イエス・キリストは、その結末をご自分の身に担ってくださいました。バラバ同様に、私たちが頼みもしないのに、十字架におかかりくださり、罪を赦し、いやし、新たな歩みを開いてくださいました。それは、ペテロに対してと同様に、罪を覆い包んでしまうものでした。どうぞよく考えてください。十字架の審きが誰に対してなされたのかを。それは全能の神に対してです。

 さて、ピラトに語られた主イエスの言葉は、私たちへの招きの言葉です(37節)。イエスご自身が神の恵みが支配するところの王であり、真理そのものであられ、そのことを明らかにするためにこの地上に来られました。その大きな愛と恵みに目を覚ましていただきたいものです。そして、その支配の中に入れられるために、主イエスの言葉に耳を傾け、聴き従い、イエスを救い主と信じ受け入れたいものです。


 あなたの目の前にある真理そのものであられるイエス・キリストを見据える時、そこに神の愛が見えます。今こそ、その招きに応答して、新しい歩みをつくっていく時です。

                          (説教者:柏原教会牧師 川原崎 晃)