柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストが共におられる」ルカ24章25-35節

エス様は十字架にかけられて三日後によみがえられました。最初、マグダラのマリヤたちが墓に行き、復活のイエス様にお会いしました。その後イエス様は500人以上の人たちに現れたと聖書にあります(?コリント15:6)。

エス様にお会いした人たちはすぐに信じられたでしょうか。そうではありませんでした。最初から信じられる人は実はいないのです。私たちは信じることの難しさと、信じることのすばらしさを知ることができるのです。


1,信仰を妨げるもの

エルサレムから11キロほど離れたエマオという村に行く2人の弟子が歩いていました。そして、彼らのそばをイエス様が近づいて来られました。しかし、彼らはイエス様の弟子であったのに、それがイエス様だとは気が付きませんでした。なぜでしょうか。
エス様は「心の鈍い」人たちと言われました。そこに、信仰理解に対する糸口があると思います。キリスト教については聖書や歴史、文化から知ることができます。知識として理解し得ることがあります。しかし、信仰は知的理解によるものではありません。むしろ、心に受けとめる、心でわかることであると言えると思います。
エス様の弟子たちは、救いのことを聞いていましたが魂の目が開かれず、その真実はわかりませんでした(16節)。十字架にイエス様が付けられたとき、一般のユダヤ人が持っていたメシア観に捕らわれていたのでしょう。それは、全能の神が天から下って来られ、その力によって選ばれたユダヤ人の国を建て上げることです。多くのユダヤ人はその事を待ち望んでいました。しかし、それはこの世的なメシア待望論であり、聖書全体が説き明かしているものではありません。
聖書を見るならば、確かに万軍の主として全能の神は来られることが語られていますが、もう一つの大切な救いが語られています。
それは、罪からの救いと永遠のいのちが与えられることです。その事はイザヤ書53章に表されている苦難の僕としての姿や、ゼカリヤ12章10節の「突き刺した者」の姿から十字架のあがないが示されていたのです。しかし、その事を多くのユダヤ人は、それが救い主の姿であると受けとめられなかったのです。
ある意味、全能の神が来られてこの世を改革されるのだ、自分たちにとって素晴らしい国にして下さるのだという期待感が大きすぎ、且つイエス様が十字架にかけられて殺されたという失望感があまりにも大きすぎたために、弟子たちの信仰の目がふさがれてしまったのでしょう。
私たちも、聖書が語るところの救いをしっかりと心で受けとめる必要があります。イエス様が来られたのは、この世を良くするためではなく、私たちの心を新しくされ永遠の御国に生きるものとされたことです。


2,信じることのすばらしさ

信じることは、まだ見えていないものを確信することです(ヘブル11:1)。イエス様はエマオに行く2人の人に近づかれました。気が付かれない中に、共に歩いておられたのです(15節)。
そして、イエス様は道々、彼らに聖書から苦難のしもべのことや、御自身のことを語られました。聖書はいったい何のことが書いてある本でしょうか。ヨハネ5:39に「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」とあります。聖書はキリストのことについて書いてある本なのです。
エマオについたころ夕刻になっていました。2人の弟子は、強いてイエス様に泊まっていただきました。夕食を共にして、食卓でパンを裂かれたとき、彼らはそれがイエス様だとわかったのです。今日でも、教会の礼拝でパンを共に食するときがあります。聖餐式です。それは主の臨在を表し、キリストのあがないに預かることを私たちに示しています。
何よりも、彼らの喜びは「心がうちに燃えた」(32節)ことです。道々歩いている中にも、聖書を話されたときも、彼らの心は燃えたのです。私たちも、イエス様がそばにおられる。それは何と幸いなことかと思います。
フットプリントという詩があります。砂浜に、二人の足跡がありました。神様と自分の足跡です。ところが、それが一つしかないところがありました。それは、自分が一番悩み苦しんでいたときでした。神様に、なぜ一つだけだったのですかと尋ねると、神様はそれは私があなたを背負って歩いたのだと答えた、という詩です。
見えない中に、神様が共におられます。主はあなたと共に、歩んで下さいます。そして、「この弱い私を背負って下さる」このことを信じられるのは何と幸いなことでしょうか(イザヤ46:4)。


         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)