9月第一の日曜日は、振起日礼拝です。もともとは、アメリカの教会が長い夏休みが終わって、魂の収穫の秋を迎えるために、霊的にも整えられる願いをもって、始めたようです。私たちも暑い夏が終わりを迎え、実り豊かな時を迎えるに当たって、神様によって整えられ、力が与えられるなら大変感謝なことです。
1,この世の支配者
およそ2000年前、ユダヤの国はローマに支配されていました。当然重い前金が課せられ、ユダヤ人達には自由はありませんでした。ローマの属国となり、彼らに支配されていたのです。
この世の支配者は、他のものを支配し、権力を振るいます。それが、この世の姿です。しかし、この世はどうなるのでしょうか。やがては滅び去ります。なくなってしまうのです。また、この世の権力者も滅びてしまいます。
聖書の中にも、「 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(?ヨハ 2:17)と言われていますが、この世は滅び去ってしまうのです。しかし、神の御心を行う者は永遠にながらえる、生きると約束されているのです。
ですから私たちは、すべてのものを造られ、治められる神様のみこころにかなった生き方をしなければなりません。
2,仕える者となる
なぜイエス様はこんな話を弟子たちにされたのでしょうか。それは、弟子のヤコブとヨハネが、イエス様のところに来て、天国に行ったら、自分たちをイエス様が座られる栄光の座の右と左に着かせて下さいとお願いしたからです。それだけではありませんでした。その事を聞いた他の弟子たちは怒ったのです。なぜなら、彼らもまた同じことを心の中で思っていたのです。自分も偉くなりたい。人に対して力を振るい、思い通りのことをしたい。そう願っていたのです。
しかし、彼らは最初どうだったでしょうか。彼らは、網を捨て父親を置いて、イエス様に従ったのです。ところが、知らず知らずのうちに、彼らもまた権力欲にとりつかれてしまいました。
そして、それは彼らだけの問題ではなく私たちも同じであるのです。私たちも、どのようなところから救われたのかを忘れて、自己主張しやすいものとなり、神様の憐れみ・恵みを忘れてしまうのです。ですからイエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と言われたのです。自分を捨て、自分の十字架を負うとは、自分の肉をその情と欲とともに十字架につけることです。(ガラテヤ5:24)それが、私たちの日常に必要なことです。神の御国は傲慢な者が住むところではなく、謙遜な者が互いに愛し合って、支え合い、補い合って共に暮らすところです。なぜなら、神の国を支配されるのはイエス・キリスト御自身だからです。
3,仕える力―原動力
イエス様がこの世に来られた目的は、私たちを永遠の滅びから救うためでした。そのために、仕える人となられました。最後の晩餐の時、イエス様は手ぬぐいを持って弟子たちの足を洗われたのです。僕となって手本を示されました。
それだけではなく、私たちの罪を赦すため、私たちが天国には入れるように、十字架の上でいのちを捨て、罪の代価を支払って下さったのです。ですから私たちは今、イエス様の赦しによって生かされているのです。その事を信じる者は滅びません。そして、人生の勝利者となるのです。
キリストは私たちの力の源です。私たちは、人に従うことや人に仕えることが難しいのですが、イエス・キリストが私たちの心の王座に座って下さるなら、私たちを導いて下さるのなら、それは可能になります。
私たちは、十字架でいのちを捨てて下さったキリストが、喜んで下さる生き方をしたいものです。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)