柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「仕える者となる」マタイ20章25-28節

先週の日曜日はイエス・キリストが死の中からよみがえられたイースターの日でした。私たちは復活の約束があるので死を恐れません。また、イエス様の救いが伝えられる力はこの復活にあります。
エス様は弟子たちに繰り返し、十字架の死とよみがえりを語られました。しかし、彼らはそれを理解することができませんでした。私たちには聖書を通して十字架の意味と、復活の力恵みを知ることができます。


1,偉い人になりたい

エス様が十字架と復活の話をされたとき、ヤコブヨハネの母親が来て、イエス様に願いました。それは、天国に行ったとき二人の息子をイエス様の右と左に座れるようにして欲しいと言うことでした。
親の願いは、いつでもどこでも同じです。自分の子どもが偉い人になって欲しいということです。そのことが他の弟子たちにも知れて、争いとなりました。しかし、イエス様はそのことを戒められました。
それは、神様の恵みと祝福を知らない異邦人がすることだと言われたのです。確かにこの世は、権力と富によって生活することがあります。しかし、それは天国ではそうではないということです。そうしたものは天国では通用しないのです。なぜならば、父なる神様が全てを支配され、決められるのです。私たちは、神様によって造られ、生かされている存在です。神様が全てなのです。


2,仕える者となる

エス様は弟子たちに、偉くなりたいと思うなら、みなに仕える者になりなさいと言われました。みなに仕えるとは、へりくだり、助けてあげることです。相手の必要を満たしてあげることです。食卓で言うなら、給仕をすることです。それが、仕えると言うことです。
それが今の時代でも求められていることです。サーバントリーダーシップ、という言葉が使われています。まさに、サーバント自分が給仕係となってお世話をすることです。自分がやってもらおうと思って、指図するのではなく、むしろ相手にしてもらいたいことを、自分がまず手本を見せて行うことです。そのためにイエス様は、最後の晩餐で、その見本を見せられました。弟子たちの足を一人一人洗われたのです。それは、奴隷のする仕事でした。越しに手ぬぐいをして、服をからげ、ひざまずいて、相手の足をたらいに浸けて洗うのです。そして、タオルできれいに水を拭き取ります。洗われたほうは気持ちがよくなります。
エス様は互いにそのようにしなさいと言われました。それが、僕になりなさいと言うことです。


3,仕えることはいのちを与えることである

そして、イエス様はご自分がこの世に来られたわけを弟子たちに話されました。それは、十字架と復活に深く関係があります。
エス様が来られたのは、仕えてもらうためではありませんでした。仕えるために来られたのです。しかも、単に、僕として仕えることではありませんでした。多くの人に、いのちを与えるために来られたのです。そのいのちはもちろん、肉体のいのちではありません。魂のいのち、天国で生きる永遠のいのちです。それを与えるために、私たちのところに来られたのです。
弟子たちの理解は、イエス様が共におられたら大丈夫だ、イエス様が生きておられるかぎり自分たちは助かると言うのが、弟子たちの考えでした。そして、多くの人は、そのように考えているのではないでしょうか。しかし、それは自分の都合の良いように考えているだけのことです。たとえ嵐がおさまり、病気が治ったとしても、死の現実があるのです。誰が私たちに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。
それができるのは、イエス様だけです。そのいのちを与えるために、十字架に死ななければなりませんでした。そして、罪を赦すために、十字架にかかられたのです。私たちの罪を赦すために、十字架にかかって死の代価を払われたのです。
その十字架を信じるなら、私たちは死ぬことはありません。天国に入ることができるのです。
エス様はそのために来られ、私たちにいのちを与え、仕える者となる力をも与えて下さいます。


        (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)