柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの顕現」ヨハネ20章19-23節

先週は、イースター、キリストの復活を祝う礼拝の日でした。今日の箇所は、その日にイエス様が弟子たちに現れたことが記されています。弟子たちは復活のイエス・キリストに会うことにより、彼らの人生は大きく変わりました。
私たちもまた復活のキリストにお会いするなら、すなわち心の中に信じ受け入れるなら、私たちの人生も大きく変えられるのです。


1,平安が与えられる。

イエス・キリストを信じるなら私たちに何が与えられるでしょうか。それは、第一に平安です。弟子たちはイエス様が復活されたことは、マグダラのマリヤたちから聞きました。しかし、彼らには、それを受け入れる信仰がありませんでした。ペテロともう一人の弟子は、墓に見に行きました(3節)。そして、イエス様がよみがえったことを見たのです。しかし、彼らはイエス様がよみがえられた意味を理解できませんでした(9節)。その証拠は、彼らはいぜんとして人を恐れ戸を閉めていたのです(19節)。彼らの心には恐れと不安がありました。もし、自分たちが見つかったらイエス様と同じように十字架に掛かれて殺されるのではないかと。彼らは、イエス様のよみがえりを聞きました。そして、実際に見てきました。ところがいぜん、彼らは閉じこもっていたのです。
私たちはどうでしょうか。聞いても、見ても、やはり自分は変わらない。弟子たちと同じように、不安で閉じこもっているようなことはないでしょうか。
しかし、イエス様はそんな弟子たちの中に現れたのです。彼らに言われた最初の言葉は何だったでしょうか。「平安があるように」と言う言葉でした。ヘブル語ではシャロームです。普通の挨拶の言葉です。しかし、そこには「平安」という意味があるのです。私たちの心は平安で満たされているでしょうか。
エス様は弟子たちにかつて「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と言われました。イエス様の平安は、心の中の恐れや不安を取り除いてくれるものなのです。それを約束されたイエス様が死からよみがえられ、弟子たちの中に現れたのです。これほど確かなもの、信じられるものは他にありません。弟子たちは、復活のイエス様を見て喜んだのです。


2,罪の赦し

エス様は、弟子たちを「遣わす」と言われました。彼らには使命がありました。それは、キリストの救いをすべての人に伝えることでした。キリストの救いとは何でしょうか。それは、先に述べた、「キリストの平安」が与えられることです。そして、もう一つは「罪の赦し」です。なぜ罪の赦しが必要でしょうか。私たちが罪を犯し続けるならどうなるのでしょうか。罪の支払う報酬は死であり(ローマ6:23)、永遠の滅びです。キリストは私たちを死から、永遠の滅びから救うために来られた方です。
しかし、私たちに罪を赦す権威・力があるでしょうか。ありません。私たちに罪を犯すものを私たちは赦すことができません。悪口を言われたら言い返し、悪いことをされると仕返しをしようと思います。人から受けた恨みは忘れられません。苦しみを受けたら、憎しみを感じます。それが私たちの姿であるのです。
ところが、イエス様は十字架で死んで下さいました。それは、私たちに対する罪の赦しであったのです。手と脇腹の傷は、復活のしるしでした。それには、もう一つの意味があります。あがないの代価のしるしです。私たちの罪が赦されるために、イエス様が命をもって償ったと言う印なのです。それを弟子たちは見て、自分たちが赦されたことを喜んだのです。私たちも、自分の咎・過ちが赦されたらどんなに嬉しいことでしょうか。
そして、イエス様はこの罪の赦しを弟子たちに託されたのです。彼らには権威はありませんでしたが、イエス様が遣わされ、さらに聖霊を受けなさいと言われました。聖霊は「もう一人の助け主」であり、罪の赦しを与えて下さるお方です。彼らはいつ、その助け主を受けたでしょうか。ペンテコステのときです。イエス様は受けなさいと言われました。そして、50日後のペンテコステの日に聖霊は下られ、彼らは大胆にイエス様の十字架の赦しと救いを語ったのです。
私たちにも同じことが必要です。聖霊が働かれて罪を赦すなら、私たちは赦され自由になり、喜びと勝利の人生を得ることができるのです。
エス様が、私たちにも「霊の息吹」を吹きかけて下さって、聖霊が私たちの心の奥深くに臨まれ、恵みを湧き上がらせて下さり、栄光の中を歩ませていただきたいと思います。

             (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)