柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「わたし自身が一緒に行く」 出エジプト記33章12〜16節

 「主の臨在に生きる」ことは、モ−セだけでなく、神のものとされた聖徒たちの神に対する積極的な希求であり、人間の魂の最深の要求を満たすものです。そして、私たちの教団創立時から拠って立ってきたみことばであり、耳慣れ、熟知しているものです。しかも、ここにこそ、個々のキリスト者の聖化の恵みの生涯においても、教会全体が神のものとして整えられて歩むためにも、まさに拠って立ち続ける必要を痛感します。


Ⅰ.一緒に行ってくださるお方

 この時モ−セは、担い切れない重荷を背負って苦しんでいました。イスラエルの民の信仰があまりにも浅薄で不誠実であったため、モ−セは、罪を犯し神に逆らう民と、その民を審いて滅ぼしてしまおうとされる神との破れの狭間に立って執り成しました(32章31−32節)。このモ−セの重荷を理解された神は、ひとりのみ使いを遣わして、ご自身は一緒に行かないと言われたのです(33章2−3)。しかしそれでは、身勝手な民を約束の地に導けないと絶望的な思いとなり、再び神に訴えるモ−セでした(12節)。
 このような不安と心配で心が押し潰されそうなモ−セを理解されて、神が語られたご自身の臨在の約束こそ、『わたし自身が一緒に行くであろう(わたしの顔がどこまでも一緒に)』とのみことばでした。この後38年間の荒野が控えているのに際して、この確証はモ−セにとって大きな励ましとなりました。
 神の御顔は、常に輝きに満ちています(民数記6章24−26節)。それが私たちに向けられている限り、私たちがどのような状況にいようとも、私たちは恵みと平安で包まれます。どなたが、いつも、ご一緒であるかが確かであるとは!


Ⅱ.一緒に行ってくださるなら

 『そしてあなたに安息を与えるであろう』とは、本当に神を知り、自分を知った人の心からの叫びであり、体験です。
 この安息は、苦闘の中にあって、それでも主の御顔の輝きに励まされて、魂に与えられる平安です。それは、聖霊(助け主)が、私たちの傍らにおられて励まし、力づけてくださる安息です。戦いが終わった、問題が解決した後にではなくて、戦いの最中に力を与え、悲しみの最中にそれに勝利することができるようにしてくださるのです(ヨハネ14章25−31)。
 嵐が止んでからではなくて、嵐のただ中で、困難のただ中で、難しい問題の渦中において持ち続けさせてくださる安息とは、何と幸いなことか!


Ⅲ.一緒に行ってくださるために

 この主の臨在と安息の約束は、聖書に登場する人物だけに特別に与えられたのではありません。『見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである』(マタイ28章20節)と、主イエスが託されたわざを受け継いでいるのが私たちです。
 しかし、それには一つの条件があります。それは、私たちもまたモ−セのように誠実に求めることです。『もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください』(15節)とは、約束の地がどんなにすばらしい豊かな地であったとしても、主ご自身が一緒でなければ、かえって災いですから行かせないでください、との祈りです。私たちにとって、成功・祝福・安定した生活といった状況であっても、主ご自身がご一緒でなければ行かない、行動をとらないということです。
 主の臨在、何と幸いなことか!
                        (説教者:牧師 川原崎晃 )