柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「勝利の主」ヨシュア5章13-15節

エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は、荒野を旅し、ようやく約束の地カナンにたどり着きましたが、そこにははるかに手強い異邦人がいたのです。そうした中に勝利の主はヨシュアに現れて下さったのです。


1,臨在の主

エリコは古代より、交通の要所で、非常に栄えていた大きな町でした。そのエリコを攻略することは至難の業でした。そのとき、一人の人が抜き身の剣をもってヨシュアの前に現れたのです。
その方は、主の軍の将として来たとヨシュアに告げられました。ヨシュアは顔を地に着けひれ伏し拝みました。その行為は神様にたいしてするものです。その軍の将こそ、やがて再臨のときに、天の軍勢を率いて来られる主イエス・キリストではないでしょうか。
ヨシュアはある意味、孤独ではなかったかと思います。ある人は、リーダーとは常に孤独なものだと言われましたが、ヨシュアはそのような状況の中にいたことでしょう。かつては偉大な指導者モーセがおり、彼の元で仕え、不安に思うことはなかったのですが、今はモーセも天に帰り、自分がイスラエルの民を導かなければならない、そんな重圧の中にヨシュア一人がいたのではないでしょうか。
しかし、そんなヨシュアに主は現れて下さったのです。彼にとっては、非常に心強く、思わずひれ伏し、礼拝したのです。
エス様が十字架で死なれた後、戸を閉めて閉じこもっていた弟子たちに現れたとき、弟子たちは主を見て喜んだとありますが、ヨシュアにとって神様が共におられる、これほど大きな励ましはありませんでした。
そして、神様は私たちにも約束して下さっておられます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)


2,勝利の主

抜き身の剣をもってヨシュアに現れた方は、ご自分を「主の軍の将」と言われました。神様は愛の神で、私たちを愛される方ですが、実は戦われる神でもあるのです。そのことは、イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、紅海が二つに割れ、エジプト軍が後を追ってきたとき海に飲み込まれ、残ったものは一人もいなかったのです。そのときの勝利の歌が、出エジプト記15章に出ていますが、その中の3節に「主はいくさびと」と歌われています。それが後には「万軍の主」と言われるようになりました。主はイスラエルのために戦われる方です。援助をするというのではなく、先頭に立って戦われるのです。
ですから、神様はヨシュアに命ぜられました。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」(15節)それは、出エジプト記3章5節でモーセに言われたのと同じ言葉でした。荒野ではありましたが、そこは聖なる所として、神の臨在されている所、神の居られるとこととして、まず靴を脱ぐのです。
更には、僕として、神の奴隷となって靴を脱ぐのです。もう一つ、大事な意味があります。完全に明け渡すことです。無条件降伏です。
ヨシュアはまさに、モーセが燃えるしばを見たときに、靴を脱ぎ神様に完全に明け渡し、従ったように、同じようにしたのです。神様が命ぜられるとおりにするとき、不可能と思えることも可能になります。あの難攻不落、鉄壁を誇ったエリコの城も、瓦礫と化して崩れ落ちたのです。
主が共におられれば主が戦って下さるのなら、私たちは敗れることはありません。主が戦って下さり、勝利を与えて下さるのです。


        (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)