柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「交わりの主なるキリスト」 ヨハネの第1の手紙1章1〜4節

 この教会の祈りによって産み出された「西大和キリスト教会」の今年の中心聖句は、「わたしたちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(1:3)との御言葉です。


 よく、クリスチャンが用いる用語の1つに「交わり」という言葉があります。この言葉は、「何か共通のものを所有すること」という本来的な意味があります。ですから、この箇所は、「わたしたちが所有しているものをあなたがたも共有する」ということになるのでしょうか。


 では、「わたしたちが所有しているもの」とは、いったい何でしょうか。それは、「キリストにある交わり」すなわち「キリストご自身を所有すること」というのです。


 さて、この書簡を書いた使徒ヨハネは、キリストの弟子たちの中でも早期に弟子とされた人物でした(ヨハネ1章参照)。彼は、もとはバプテスマのヨハネの弟子でした。しかし、このバプテスマのヨハネが、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29、36)と紹介されるのを聞いて、それまでの漁師の仕事を捨ててイエスについていった人物でした。


 そのヨハネがイエスを紹介するには、(1:1)

①彼は初めからあった方でした(ヨハネ1:1参照)。

また、②彼はわたしたち(ヨハネたち)が聞いたものでした。先ほどの「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉はその典型です。

また、③ヨハネが目で見た方でした。

しかも、その見方は④ヨハネがじっと見た方でした。この「じっと見る」とは、その意味するところがよく理解されるまで見る、ということです。

そして最後に、⑤ヨハネが手で触ったお方でした。


 すなわち、ヨハネは自らの体験したところを語ったのです。体験としてよく知っていた方を語ったのです。


 わたしたちはよくあやふやなことを語り、あやふやな体験をしがちなものです。しかし、この「あやふやさ」は、取り去られなければなりません。わたしたちの実体験として、救いを語っていく必要があります。もし、実体験としての救いを体験しておられないならば、主に祈り求める必要があるでしょう。


 さらに、このようなお方との交わりは、人格的な交わりです。


 例えば。毎朝の通勤電車で出会う人に対して「私はこの方と交わりをもっています。」とはいえないでしょう。挨拶程度のつながりの人に対して、私はこの人と交わりがあります、とはいえないのです。私たちも、しばしば主と挨拶程度しか交わさないのに「私はキリストとお交わりをしています」という言葉を使ってしまうことがあります。朝晩と食前だけのおざなりな祈りで、主との交わりがあるとはおよそいえないでしょう。そこには人格的なつながりがないからです。


 私たちと主との人格的なつながりは、日々に、そして瞬間瞬間の主との信頼関係です。そこには主を目の前に置くことが必要です(詩篇16:8)。主と主のことばに信頼し、その御言葉のごとくに実践していくことが必要なのです。


 そのための秘訣は「主が歩まれたように歩むこと」(Ⅰヨハネ2:6)です。キリストご自身が歩まれたように歩むことなのです。


 私たちの歩みを日々主の前に点検し、悔い改めることがあったら悔い改め(Ⅰヨハネ1:9)、主に従いぬく生涯とさせて頂きましょう。それが、「主と交わる」生涯なのです。

(西大和キリスト教会牧師 宮沢 清志)