柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストと共に祈る」マタイ18章19-20節

マタイの18章には天国のことまた罪の赦しに関してイエス様が言われたことが記されています。
マタイはかつて取税人でした。金とこの世の権力を第一に生きているような人でした。ところが彼はイエス様に会って人生が変わったのです。何もかもこの世のものを捨ててイエス様に従い、お金ではなく永遠のいのちに預かり、そして天国を目指して生きる人に変えられたのです。


1,祈りの大切さ

ここでイエス様は二つの大切なことを語られました。一つは祈ることです。神様を信じるという生活の中で祈りほど大切なものはありません。他の宗教でも祈るという行為はあります。ただし、誰に祈るかが大きな問題です。人間が自分の力で作ったものを拝んでも、それは答えてくれません。耳があっても聞こえませんし、口があっても話しません。人間の手によって造られたものは人間以上になれませんし、人間を救うことはできないのです。
私たちは誰に祈るのか。聖書は言っています。人間を造られた創造の神、創造主がおられる、造り主がおられるのです。私たちは、その神様に祈ることができます。神様は私たちをご自身の姿に似せて人格を与えてくださいました。人の心も、また将来のことも考える人間としてくださったのです。
わたしたちは神様とコミュニケーションを取ることができます。祈りによって神様と話をすることができるのです。これほど大切なものはありません。人間の最大のすばらしさは、交わりです。神との交わり、そして人との交わり、それを通してわたしたちは、孤独から解放され慰めと力が与えられるのです。しかし、残念ながら人間ほど自己本位なものはありません。自分を第一としてしまうのです。そのことが15節以降で出てきます。
人を赦すことは至難の業です。ところがそれも神にはできるのです。神は私たちを愛し赦してくださるお方です。人間でも、他人は赦せなくても自分の子供であるなら過ちを赦すことができるのではないでしょうか。まして神様は私たちを愛し赦すことができます。そのことを通して私たちの心は励まされます。 
問題解決に祈りが必要です。私たちは、神様に祈りを持って求めることができます。その約束が、19節にあるのです。私たちは、一緒に祈っているでしょうか。この世には問題がたくさんあります。そして、私たちがすべきことは「ふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、‥天の父はそれをかなえてくださいます」と最大の祈り手であるイエス様は約束しておられるのです。私たちはそれを実行するか、しないかによって大きな違いの結果を必ず受け取ることになるのです。ですから私たちはまず熱心に、心を合わせて一つとなって祈ることを実行しなければなりません。


2,キリストがその中におられる

私たちは神様に向かって祈ります。しかし、お祈りの時にはイエス・キリストの御名によって祈っています。それは、そのようにしなさいとイエス様は命ぜられたからです(ヨハネ14:13、14)。神様はわたしたちの祈りを御心にかなうものであるなら必ず成し遂げてくださいます。また、祈るなら必ず神様は答えを与え私たちはそれを知ることができるのです。それ故私たちは祈らなければなりません。祈りは私たちの命そのもの神様との交わりの命綱なのです。
そしてその交わりは、キリストが共におられると言うことです。「わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とはっきり答えておられます。
キリスト教の信仰で素晴らしいことは何かというと、「紙が共におられる」ということです。イエス様がお生まれになった時も「インマヌエル―神我らと共にいます」であり、このマタイの福音書も「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)で終わっているのです。
イスラエルの歴史もそうでした。荒野の旅の中に神様は共におられ、イスラエルを守り導かれました。今日においてもそうです。アラブの大国に囲まれて、イスラエルは存在しています。私たちもこの世では、様々な困難や苦しみに取り囲まれているかも知れません。しかし、イエス様は「わたしもその中にいる」といわれるのです。たとえ、二人か三人少ない中でも、イエス様の名によって集まる所に、イエス様は共におられ、十字架による罪の赦し、復活による永遠のいのちの喜びを与えてくださいます。

 (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)