柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神のみもとに導く」1ペテロ3章17-18節

広島では大きな土砂災害が起こりました。多くの尊い人命を失い、今もまだ避難し苦しみと不安の中にいる人たちが多くおられます。
苦しみや困難を乗り越える力を神様は与えてくださいます。
この手紙を書いたのはイエス様の弟子ペテロです。ローマでの迫害のさなか離散するクリスチャンたちに書き送りました。


1,善を行って苦しみを受ける

なぜこの世に苦しみがあるのか、それは「罪」が問題であると聖書は言っています。創世記において、天地創造の神はすべてを「非常に良い」ものとして造られました。その良いものがなぜ悪くなったのか、人間の罪が原因であることがわかります。
悪を行ってその報いを受けることは当然だと言えるのですが、なぜ何も悪いことをしていないのに、苦しみを受けることがあるのでしょうか。ペテロは、「神の御心なら…良い」と言っています。彼はイエス様の弟子でした。人一倍義侠心に熱く、イエス様について行った人です。ところが、彼は肝心の最後の時、いとも簡単に三度も知らないと言って裏切ったのです。彼の心の苦しみは相当なものだっただろうと思います。「激しく泣いた」と聖書に出ています。その思いは、情けないと自分自身を悔い、さらには罪の中から悔い改めて立ち上がる涙となったのです。


2,十字架の死

キリストは、その弱いペテロのためにも死なれました。ただ一度の死、十字架の死です。イエス様はペテロの裏切り、情けなさ、すなわち罪のために死なれたのです。それはペテロのみならず、私たちのために身代わりとなって、罪の裁き―死を受けられたのです。罪とは「的外れ」です。犯罪ではありません。私たちは犯罪は犯してはいないと思います。しかし、的外れな生き方をすることがあります。ずれてしまっている。話がかみ合わない。感情に行き違いズレがある。そうしたことが、聖書で言う「罪―的外れ」と言うことなのです。ですから、私たちは聖書が言う罪な生活をしていると、心に満足がない、平安もない、いつも不安で落ち着かなく、いらつき、ストレスがたまると言うことになるのです。
その罪から私たちを救うためにイエス・キリストは来られたのです。「すべて重荷を負って苦労しているものはわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と言われているのは、私たちを苦しめている重荷から解放し、永遠の平安を与えるために言われているのです。
十字架はまさに、罪を犯していない人が、罪を犯した人の罪を背負って、そしてその負債を払ってくださった。罪を許してくださったと言うことです。負債が払われると楽になるのです。ペテロはそれを経験したのです。彼も罪が赦され、楽になり自由になったのです。


3,天国への招き

なぜ私たちは、十字架が必要なのか。それは、永遠のいのちに預かり、天国に入るためです。私たちは肉体を持っています。しかし、肉体だけが私たちのすべての命ではありません。私たちには、朽ちることのない霊のいのちが神によって与えられるのです。もちろんすべての人が自動的に得られるものではありません。キリストが導いてくださるのです。その印として、キリストは死の中からよみがえられました。復活を喜ぶイースターがあります。私たちはキリストの復活を毎年喜びます。なぜなら、私たちもその復活―霊のいのちに預かられるからです。たとい私たちは、死ぬことがあっても恐れません。キリストが共におられ、キリストが霊のいのちを私たちに与えてくださるからです。


       (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)